その十八 雫、この世界の理を合点する

「――戦国乱世の時代も遠くなり、江戸の町もこれこの通り、何処にも負けぬ賑わいを見せております。将軍様のご加護もあって平穏無事な日々が続き、皆幸せに暮らしておりました。しかし――幾年いくとせか前より、江戸の周りに不穏な空気が立ち籠めるようになったのです」


 伏し目がちに云う桜は、そこで顔を上げると、雫と目を合わせた。


「それは――妖怪あやかしどもに御座います」


「あやかし……」

 意表を突く耳慣れぬ言葉に、雫は口を噤んだ。


 桜は続ける。


「幾千年の昔より、遠く東国に身を潜めていた物怪もののけ妖怪あやかしが、いよいよこの江戸の町を乗っ取ろうと、大挙して押し寄せてきているので御座います――そこで将軍様は、隣国の殿様方にお触れを出し、化物どもを退治するため三万の軍勢を差し向けました。そして、人と妖怪あやかしとの戦は未だ、弛むことなく続いているので御座います」


 話を聞くうち何となしに不安になって、雫は周りをぞろぞろと行く、町の人人の姿を見た。誰もがそんな町の外の諍乱など、知らぬ存ぜぬと云った風である。事実、知らぬのかも知れぬ。

 そんな彼らの様を見て雫は、自分たち三人が周囲の世界から切り離されたような、奇妙で曖昧な感を覚えた。


 桜は雫の表情を伺いつつ、更に続けた。


「――御剣様のお察しの通り、町の人人は長く、そのことを知らされてはおりませんでした。いえ、未だに知らぬ人がほとんどです。人心を惑わさぬようにとのお上からのお達しに御座いました。が、しかし近頃では、私がこのように聞き知っておりますように、段段と噂は広まりつつあります。妖怪あやかしどもが攻め入ってきている、人の軍は今や劣勢である、そう遠からぬうちに、町の中にまで妖怪あやかしどもは入り込んでくる、否、既に入り込んでいる――そしてそれらは皆、まことのことなので御座います」


 到底信じがたい異様なことばかりを、桜は真剣な面持ちで語り続けた。ちらりと見れば、颯太も真面目な顔で頷いている。この突飛な話に、何も疑問は感じていないようだった。


 雫はそっと、眉を顰めた。


 真実雫が何かの事情で江戸時代に時間跳躍タイムスリツプしてきているのであれば、こんな語りを聞かされようはずもない。徳川の治世二百六十年、雫の知る限り、大きな戦は一つとして起こらなかった。ましてや妖怪あやかしの軍勢など、現実まことの世界で有り得るわけがない。


 と、なると。

 此処に至ってようやく雫は、推測が確信に変わった。


 やはり、そうだ。

 此処は、本物の江戸では、ない。


 虚言泡沫絵巻の中の、「江戸」なのだ。


 それなら全てに得心がいく。


 天空から舞い落ちる羽目になった雫。絡繰細工に溢れた愉快な宿。武士と妖怪あやかしの間で繰り広げられる大合戦。にもかかわらず、随分と賑賑しく楽しげな江戸の町。そして、颯太のあの、不可思議な力。


 これらはいずれも、歌方雅楽が描いた物語。

 絵空事の世界なのだ。

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