その七十一 雫、颯太を奪われる

 姫は、背後の大穴を振り返った。

 それに合わせたように、遠方で火焔を撒き散らしていた獣の妖怪――颯太が火車と呼んでいたものが、此方へ向かって真っ直ぐ宙を飛んで来た。躰を波打たせ、中空を泳いでいる。そして、穴のすぐ前に止まった。

 黒鬼三頭に担がれた姫は、その背に悠悠と乗った。颯太も、残りの一頭に着物の背を掴まれて、抗うことも出来ず連れて行かれる。


 そこで、ようよう呪縛でも解かれたかのように、雫は穴へと走り寄ろうとした。

「雫ッ」

 鬼に捕らえられたまま、火車の背中で最後にそう叫んだ颯太は、不意に雫に向かって、何かを投げつけた。

 飛んできたのは何故か――颯太が何時も使っている、筆だった。


 墨がついたままの筆は、畳にぶつかり線を描いて、ころころと転がった。

「颯太!」

「――さらばじゃ、愚かなる剣客よ」

 しかしそんな雫を嘲笑うと、浄瑠璃姫はそう云い残し、

 火車はごう、と火の粉を上げ――。

 二人を乗せて、空の彼方の何処かへと、飛び去っていった。


 雫は穴の傍で、力なく膝をついた。

「そんな……」


 今すぐ追わねば。

 直ちに行かねば。

 見失ったが最後、颯太は手遅れになる。

 妖怪に取込まれる。

 けれど、見渡す限り町は轟轟たる炎で満ちていて――。

 追いかける前に、焼け死ぬのが落ちだった。


「こんなのって……」

 万策尽きたとしか、思えなかった。

 そして、颯太の投げた筆を、そっと雫は拾い上げる。竹林で最初に出逢った時、それはまだほんの数日前なのに、もう随分以前のことに思える。あの時、持っていた筆だった。

 雫は、それを握った。


 けれど――何も起こらなかった。


 何処かで誰かが物語っていたような、甘く優しい、二人を救ってくれる奇跡は、そこにはなかった。何時まで経ってもどれだけ待っても、それはそのままだった。

 当たり前だけれど。

 何もしなければ、何も起きない。


 ――涙でも、流せばいいのかな。


 自分でも馬鹿げたことだと思いながら、雫は考える。

 けれど涙は、出なかった。

 ぼうとしながら、雫はただその筆を、何時までも見つめていた。


 ――これで、終わるのかな。


 そう、思った。

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