その七十二 雫、微笑む

 しかし、その時だった。

「――御剣様っ、あれをッ」

 離れたところから雫を見つめていた桜が、唐突に大きな声を出した。びくり、と背を震わせ、雫は振り返る。

桜は、颯太が最後に向かっていた、壁を指さしていた。

 そこには――。


 ――目を見張るほどに美しい、駿馬の絵があった。


 雫は言葉を失った。

 颯太は鬼の陰に隠れて、渾身の筆を振るっていた。壁一杯に描かれたその見事な馬は荒く力強く猛猛しく、風の如く軽やかに、水の如く涼やかに、駆け抜ける姿をしている。靡くたてがみ、嘶く口、筋骨隆隆として毛並みのよい躰、地を踏みしめる脚は、しっかと立って麗しい。


 そして何よりも。

 澄んだ優しい瞳をしていた。


 ――颯太の眼だ。


「……描けるじゃない」

 その眼と見つめ合いながら、雫は此処にいない颯太に向かって、そっと言葉を洩らす。


 けれど不思議だった。

 颯太が描いたのに、馬はまだ絵の中にいるままだ。

 浄瑠璃姫は颯太が力を遣うところを見たことがなかったから、恐らくは絵を描いていることには気づいていても、何も咎めなかったのだろう。それはよいのだが。

 何故出てこないのか――。

 雫は暫く馬を眺めて思案し、そして漸く、気がついた。

 馬にはまだ、尾がなかったのだ。


 雫はくすり、と笑う。

「……はいはい」

 握った筆を壁に押し当てると、さっと流すようにして、

 雫は最後の一筆を入れた。


 刹那。

 目が眩むほどの光を放つと。

 壁から葦毛の大きな馬が飛び出した。


 命を吹き込まれた堂堂たる体躯の若馬は、畳敷きの部屋へ身軽に降り立つと身を震わせ、声高らかにいなないた。

 雫はにっ、と笑った。

「……よし!」

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