その七十 雫、未だ動けず

 ひょいと顔を覗かせた颯太は、尋ねた。

「――今物凄い音がしたぞ。何かあったのか」


「颯太! 来るな!」

 しかし、手遅れであった。

「丁度良い、この者を貰うていこう」

 云うなり姫の艶めかしい黒髪が、蜘蛛の脚のようにずるずるずるずると畳に沿って、不気味に此方へ向かって這い伝い伸びる。

 そして、颯太の左足首へ、蔦の如くに固くぎちりと巻き付いた。


「えっ――」

 抗う間もなくその場に倒された颯太は、そのまま畳の上を引きずられ、仕舞いに鬼姫の脇へ、あっけなく転がされた。


「颯太!」

「人質じゃ。この姫の躰もそろそろガタが来る。その後は――この者の躰を借りるとするか」

 んん、何か云いたいことはあるか東雲、と姫は虚ろに空いた穴のような眼で、颯太の顔を覗き込む。いきなりのことに何が起きたか判らぬ様子だった颯太も、これで全てを解したらしく、愕然とした。

 そうしてから、颯太は雫の方をちらりと見遣った。


 雫は、まだ動けない。


 ところが突然何を思ったか、颯太は両の手で這うようにして、ずりずりと後ろへ下がっていく。そして壁際に至り、黒鬼たちの陰になってすっかり隠れてしまった。何故のことか判らず、雫は困惑する。

 颯太の姿は、見えない。


「何じゃ、何をしておる。情けない己が姿、恥ずかしゅうて見られとうないか。よいよい。今の内が華じゃ」

 口振りだけ寛容にして、姫はほくそ笑んだ。

 ここへ来て何とか身を起こした桜が、咳き込みながらも姫に向かって云った。

「このまま、逃げられると思うのかッ」

「笑止。外は火の海。人の脚でどうやって抜けるというのじゃ。精精江戸から抜け出すが関の山、我の後など追えるはずもない」


 軋むような声を上げて、姫は哄笑した。くっ、と桜は口惜しげに洩らす。万事休すか、と雫は身を震わせた。

しかしふと――。

 雫は気づいた。

 陰に隠れた颯太が、壁に向かって何かをしている。

 あれは――。

「さあ、そろそろ時間じゃ」

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