その五十六 雫、いかんともしがたい気持ちにため息をつく
翌朝、目を覚ましたときも、まだ雫は如何ともし難い感情を胸に抱えていた。躰を起こし、昨夜のことを思い起こす。
気絶した桜を浴室から引っ張り出し、躰を拭き、新しい浴衣を着せ、自分も着替えてから宿の者たちに何とか言い訳をして部屋に戻す。そうして目を回している間も桜は
――
雫は大きく嘆息する。ああいう娘は嫌いではない。誠実で、確実に悪人ではないし、信頼できる仲間が出来たことは雫も嬉しい。
しかし。
同性の友に絶えず貞操の危機を感じながら過ごさねばならぬということには、喩えようもない虚しさを覚えた。加えて自分は男だと云っているのだから桜に嘘を吐いているわけで、あまり気分もよくない。どう言い繕ったところでこんなことすんなり解決するとも思えず、雫は桜の顔を思い浮かべ、心の内で謝るほかなかった。
それにしても。
一体城では、何が起きているのだろうか。雫は考える。くのいちを送り込み姫の命を狙うなど、余程のことがあるとしか思えない。そして仮に桜の推測通り、城が既に邪鬼の魅に囚われているとしても、果たしてあの浄瑠璃姫に何があるというのだろうか。屋敷で何かを見てしまったのか。それとも、
加えてその場合、雫には何が出来るかと云えば、ただ愚直に姫をお守りする他何もないのである。勿論出来うるだけのことはするつもりだったが、しかしそんなことでよいのだろうか。そんなことで、この絵巻の世界から抜け出すことが出来るのだろうか。何かもっと、きっかけになりうるものを探すべきなのか。
やはり魅の凝る処を、打たねばならぬのだろうか。
それにしたって、どうやって。
「……ふう」
と首を振ると、雫は際限ない悩みを取り敢えず脇に退けておくことにした。自分の手には負えない。そして、より切実な問題を考えることにする。
昨夜の桜の、滅茶苦茶な三角関係の妄想を思い出した。
――颯太と私がって、何。
ある意味では正しい憶測だと雫も思うし、その意味で二人の間に嫉妬するのは的確かも知れないが、その他大半の意味では著しく間違っている。そういうところも大層虚しい。
そうして何となしに、雫は隣で眠っているはずの颯太を見遣った。
ところが。
その布団は空だった。
雫は首を傾げる。
岬は部屋の広さの関係で、桜の部屋で共に寝ている。この部屋には雫と颯太の布団だけが並べて延べてあるが、颯太の姿は既に見当たらなかった。いつも一番寝坊する颯太が、一体どうしたのだろうかと雫は怪訝に思った。
それに今朝は、いやに寒い。
この世界の冬が近づいているとはいえ、ただ事ではない。外からの光の量から云って、まだ満足に日も昇っていない早朝のようだったが、それにしても寒すぎた。雫でさえ布団から出る気がしない。ますます颯太が早起きした理由が判らなくなった。何かあったのでは、と不安にもなる。
その時、ふと雫は考えた。
――颯太なら、どんなとき早起きするだろう。
寒いけれど、早起きするとき。
そこまで考えて雫は不意に、もっと幼い頃の心沸き立つ懐かしい記憶が蘇るのを、胸の内に感じた。
――成程、そう云うことか。
雫は布団を跳ね飛ばすと、急いで着物に着替え、部屋を出た。
宿の玄関から外へ出ると――。
そこは、一面の雪景色であった。
天からしんしんと降る雪が、道に、屋根に、そこかしこに優しく柔らかく積もっている。地味な色合いが続く江戸の町が、この時ばかりは冷たく美しい静寂に包まれていた。
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