その五十五 雫、新世界を知る

 桜はそのままするり、と浴衣の帯を解く。

 白磁の如く美しいその肩をはだけさせる。

 ほんのりと膨らんだ胸が顕わになる。

 雫は確信した。

 

 ――襲われる。


「はぁあああああああああああああああああイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ、ちょっと、ちょっと待って!」

「もう待てませぬ。御剣様が浴室へ入って参れとお申し付けくださったその刹那から、この桜、覚悟しておりました――」

 雫としては女同士だからどうということはないと思っていたのだが、考えてみれば桜にとってこれは、誘い文句以外の何ものでもない。


(息が荒かったのもそれか!) 


 漸く雫は察したが、今更遅い。

「重重承知しております。私が如き色気のない者の躰、いくら目の前にしたところで何もお感じになりませんでしょう。ですが私は」

「え、いや、別にその……綺麗だと思」

真実まことに御座いますが御剣様ッ」


 すっかり裸になった桜は頬を赤らめ目を輝かせ、これも裸の雫にぴったりと抱き付いてきた。

 濡れた肌と肌の触れる感触がやたら生生しい。相手の男女関係なく、雫はこのような心地になるのは生まれて初めてである。頭の中が真っ白になって、どうしてよいのかもう全く判らない。


「御剣様ッ、わ、私は――」

「あ、あの、桜ちゃん、桜ちゃん!」

 必死に抑制心を働かせ、無理矢理桜を引きはがす。きょとんとした目で桜は雫を見返していた。何故この期に及んで雫が躊躇うのか判らぬらしい。荒い息の中少女は云う。

「御剣様、失礼ながら、据え膳喰わぬは――」

「わ、私に、私にそのケはない!」


 泡を食った雫は訳も判らぬままいきなりそう云った。経験したことはないが、多分ないと雫は思う。そして目の前の桜の綺麗な胸を見て、程良い美乳、お前もか、などとどちらでもよいことを考えた。

 雫の言葉に衝撃を受けたらしい桜は、突如として大声を出した。


「そ、その毛、とはどの毛に御座いますかッ」

「へ?」

「否否、何処の毛でも構いませぬ。御剣様、ということは――女子おなごにご興味があらせられぬので御座いますかッ」

「そう、だからそれ」

 云ってしまってから雫は自分の口を押さえた。


 間違えた。

 今自分は男のはずだった。


 しかしこうなるともう――桜は止まらなかった。

「何と云うことに御座いましょう何と云うことに御座いましょうッ、肝心の所をお訊き申さず勝手に懸想していた桜が悪う御座います。お恥ずかしゅう御座います。御剣様は女子にご興味があらせられぬと。流石は剣の道を究めしお侍様、しだらなき女遊びなど――否、むしろ、この場合――さては、衆道のご趣味をッ。成程それならばよく判ります。昨今けして珍しいことでは御座いませぬ故――ハッ、と云うことは、と云うことは、し、し、東雲様とッ」

「え。あ、あのそれは」


 衆道。

 確か、男と男の愛の語らいのことであったはず。

 ――颯太と、私が。


 どこまでも話が妙な方向へ流れ出して、汗を流したばかりというのに雫はまた妙な汗を掻き始めた。浴室は湯気以外の何かから来る熱気で包まれている。一方で桜の妄想は止まらない。

「桜ちゃん、桜ちゃん……」


「ああああ何と云うことに御座いましょう、目前にてあれだけ親しげにされておきながら何も察せず、桜はまことに愚か者で御座います。疾うに気づいておくべきでありながら。お二人が、そ、そのような仲と。しかし御剣様、お聞きください。この桜、身も心も御剣様に捧げる覚悟に御座います。如何に足蹴にされようと邪険に扱われようと、喜んでお仕えいたします。どうぞお好きにお使いください。桜は、桜はもう――ああああ何と云うこと」


 無茶苦茶を云いながらも桜はどこか生き生きとしている。出会った頃の淑やかな印象などどこぞへ消し飛んでいる。ずっと猫を被っていたのか、それとも頭の中は以前からこのような状態だったのか。自分の云ったことを自分で聞いて、それに自分で昂奮しているようだった。雫は嘗てなく酷い偏頭痛を感じた。


 雫と颯太が男同士で深い仲にあり、そんな中自分は雫に片思いをし、叶わぬ恋と知りながら健気に仕え、日日酷い扱いを受けながらもそれに倒錯的な喜びを感じている、という筋立てを考えて、桜は一人で大いに盛り上がっている。最早妄想どころの騒ぎではない。

 雫は思った。


 ――変態くのいち。


 自分の妄想だけで身悶えしている全裸の少女をどう扱ってよいか判らず、雫は暫し頭を抱える。

 するとそんな隙を逃さず、熱っぽい顔をした桜は再び雫に飛びつこうとした。


「み、御剣様、どうか、どうかこの私と――ッ」

「わああああああああ」

 つい、雫は脇に避けてしまった。

 そして。


 湯船に思い切り頭を打って、桜は気絶した。

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