その六十五 雫、真実を知る
「姫、このままではこの宿も危のう御座います。お躰に障るかとは存じますが、どうかお逃げくださいませ」
雫は姫に向かって口早に云う。すっかりこの口調も板に付いた。
しかし姫は、振り返りもしなかった。
「町が――」
ぽつり、と姫は呟いた。
「――町が、燃えておる」
暗い部屋の中は、炎と共にゆらゆら、ゆらゆらと揺れていた。
「人が叫んでおる。童が泣いておる。鬼面の武者が駆け抜けて、数えきれぬほどの
「左様に御座います。姫様どうか、どうか、お早くお逃げくださいませ!」
「酷い事じゃ。
それでも姫は、動こうともしなかった。
歯痒くなった雫は、
「姫!」
と再び呼びかけ、背負ってでもよいから連れ出そうと部屋の中へ足を踏み入れた。そして部屋の中央に敷かれた布団を横切る。
すると。
その枕元に、何かが置かれていることに気がついた。
怪訝に感じ、雫はそれを手に取る。
それは、文のようであった。
表には何も書かれていない。
「これは……」
雫がそれを拾い上げると、姫は振り返らぬまま、応えた。
「ほれ、妖怪に襲われて、宿の外で死んでおった侍がおったじゃろう。あれが持っておったものじゃ」
ああ、と雫は首肯する。見てみれば裏に血がべったりと付いている。惨いものである。広げながら、しかし雫は首を傾げた。
「……でも何で、姫がこんな物を」
云いながらその筆書きの文字を読んでいくと、不意に、書かれた内の一行が眼に留まった。
そして雫は――口を閉ざした。
浄瑠璃は人の心を失いし鬼姫なり
一刻も早く捕らえずば、江戸の町は最早
――鬼姫。
部屋の中には、影が揺らめいている。
揺らめいている。
影の形は、次第次第に大きく歪み、崩れ、奇怪な態に変わっていく。
ばきばきと音を立て、頭から二本の尖った影が伸び出している。
雫は、動くことが出来ない。
「何故と訊いたか。応うるまでもない――」
「――わらわが襲うたからに決まっておろうが」
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