その五十八 雫、姫様を心配する

 暫くしてから、雫は颯太と共に宿の内へ戻った。丁度、桜が岬の手を引いて部屋から出てくるところだった。雫は謂れもなく緊張した。


 一方の桜は、幸か不幸か昨晩終わりの方で何があったか今ひとつ思い出せぬ様子であった。瘤をさすりつつ、首を傾げながら失礼を致しましたとぺこぺこ頭を下げるので、雫は照れ隠しに頷いておいた。一応、自身の正体を明かしたところまでは憶えているようだった。

 岬はと云えば相も変わらず無表情の無愛想で、昨日と同じ着物を着ている。桜より先に起きて、部屋の窓から呼び寄せた鷹の世話をしていたらしい。しかし雫の姿を眼にすると、黙ってすたすたと寄ってきて、そのまま何も云わずに手を取った。これでも懐いてくれてはいるようである。雫は微笑んだ。


 そうして、四人揃って雫たちの部屋で朝食を食べているときである。

 運んできた女中がああそうそう、と思い出したように云った。

「姫様が、お躰の調子がお悪いとかで」

「え、大丈夫なんですか?」

「心配は要らぬ、ただの風邪じゃ、伏せっておるゆえ入ってくるな、と、こうおっしゃっておいででしたよ」

 とその淡白な顔だちの女中は雫に伝えると、失礼いたします、とそのままいそいそと部屋から出て行った。

「急な寒気故、仕方あるまい」

 と颯太は肩を竦めた。しかし、雫は眉を顰めた。

 些か不自然である。


 ――もしや、何事かあったのかも知れぬ。


 早々に食事を終えると、雫は腰を上げる。念のため叢雲むらくもの刀を持ち、廊下へ出ると、姫の部屋へ向けて一歩を踏み出した。



「くしゅん」

 姫は布団の中で顔を赤くしている。

「じゃから何故入ってくる」

 雫は脱力した。横で半目の颯太が腕組みをして雫を見ている。

 考え過ぎだった。

 後から岬をつれて桜が入ってこようとすると、姫はぱたぱたと手を振る。

「これこれ、幼子を入れるな。感染うつるではないか」

 そうしてまた、こほこほと咳をした。部屋の隅には女中が持ってきたらしい、小さな火鉢が置いてある。その向こうの壁には、未だにあの紙で出来た雛人形が立てかけてあった。


 桜が襖を閉めて岬と共に元の部屋へ戻っていくと、じとり、と姫は目を細めて雫を見た。雫は弁解する。

「いえその、状況が状況だけに何かあったのではと」

「何かあったら何かあったと申すわ。で、今日はどうするのじゃ。雪が降ったら休みか」

「いえ、あの、ですからどうしたものかと。その辺も含めて出来れば今からご相談を……」


「――何やら、騒がしいな」

 すると、颯太が襖の向こうに目をやって云った。

 確かに廊下からばたばたと行き交う音や、女中らしき者の怯え声が頻りに聞こえる。奉公人の躾のなっている伽羅倶利屋にしては珍しいことであった。

 その時、いきなり襖が開き、巴が顔を出した。

 久久に髪が乱れている。そして、初めて見せる深刻な表情をしていた。


「ごめんなさいよ。ちょっとね――厭な噂が入ってきてね。うちの娘たちも動揺してるんだよ」

「どうしたんですか」

 雫が尋ねると、巴はすっと部屋の中へ入ってきて、襖の前に腰を下ろした。

「――町の外の、妖怪あやかしどもとの戦がね。何でも、幕府方がたが劣勢に立たされているらしくて」

「それって……」

「まだ噂だよ。はっきりしたことは判らない。でもこのまま妖怪どもの軍勢が勝ってしまったら――連中は、迷わず町へ攻め入ってくるだろうね」

 低い声音で、巴はそう云い切った。雫は到底、信じられなかった。

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