その五十七 雫、愛おしき気持ちに駆られる

 足元を踏みしめるとぎゅ、ぎゅと音が鳴る。

 何となく、雫は嬉しく感じた。

 腰を落とし、掌で雪を掬い上げる。

 ひやり、と刺すような冷たさを感じる。

 そして。


 雫には、未だ判らなかった。

 この雪の手触りは、疑いなく真実まことのもの。

 この眼に映る景色も、この町に漂う薫りも、この雪から聞こえる音も、紛う事なき真実まことのものである。

 桜と話したことも、岬と遊んだことも、巴と笑ったことも、姫と出逢ったことも、

 颯太に恋をしたことも、

 どれもこれも雫には、真実まことのこととしか思えなかった。


 しこうして、これは虚言そらごとであるという。泡沫うたかたであるという。


 このまま絵巻の世で生きたなら、

 これが現実まことになるのだろうか。

 それとも己が幻となるのだろうか。

 何が現実まことで、何が幻か。

 雫には、判らなかった。

 判らなかった。


 声が、聞こえた。

「雫」

 振り返ると、そこには颯太がいた。

「起きたか」

 雪を僅かに頭に積もらせた颯太は、いつもと変わらぬ無邪気な笑みを浮かべて、其処に立っている。雫は頷く。

「うん」


「目を覚ましたら外が静まりかえっておった。空気も冷たい。これは雪に違いないと矢も楯もたまらず、こうして飛び出した。案の上だ。冬はこればかりが楽しみだ。雪は――よいものだ」

 よいだろう、そう思わんか。

 翻って町を見遣り、颯太はそう云った。

「夏は蒼き草葉が生い茂り、熱き風が血気を沸き立たせる。秋は晴れ渡った空に枯れた薫り、満月も美しい。冬はこうして雪が降る。そして春は――桜舞い散り、新たな始まりに心躍る」


 どの季節も、楽しい。


 道の真ん中に立ち、颯太は笑った。

「どの季節であっても、この町は見飽きることがない。何が起ころうとも、この世に倦むと云うことがない。私はな、雫――」

 雪は空から生まれ来るように、静かに静かに降り積もる。

 どこまでも澄み切った、純真な眼をこちらに向けて、

 颯太は雫に、こう云った。


「私は、今のこの町が、この時代が、大好きだ」


 雫は、どうにも愛おしくなって――。

 ただ優しく、肯った。

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