その十 雫、颯太に目を見張る

「雫ッ」


 背後から、その名を呼ぶ声が聞こえる。


 隙を見せることも厭わず、雫は素早く振り返った。


 そこにいたのは――。

 何とか人垣根を掻き分けてきた、颯太だった。


「ちょっとあんた、何して……」


 すると何故か颯太はごそごそと、風呂敷包みから紙を一葉、筆を一穂取り出した。墨を含んだままのその筆で、さらさらと手早く紙に何かを描き付けている。


 そして何を思ったか、見せつけるかの如く、此方こちらへ向けてその絵をしっかと示してみせた。


 描かれていたのは――。

 童子の戯書きのような、虫の絵だった。


「そ、そんなことしてないで、早く……」


 ――刹那。


 むくりむくりと絵が動き出した。

 手足を動かし、羽を広げ――。

 それは紙の中を、縦横無尽に飛び回る。


 眼に映る光景が信じられず、唖然としたまま雫、浪人、やくざ者二人は、動くことも叶わない。


 うごめばたまいび唸り。

 仕舞いに紙を突き破るような勢いで紙から飛び出してきたのは、


 人の頭ほども大きさのある、三匹の不格好な羽虫だった。


 勢いそのまま、ぶううううんと耳障りな羽音を立てるその得体の知れない虫たちは、浪人とやくざ者に向け、尻の鋭利な針を突き出して襲いかかっていった。


 一瞬何が起きているのか判らなかった三人も、次の瞬間、

「――ワアアアアアアアアアッ、ば、化物ぉおおおおおっ」

 と情けない悲鳴を上げ、逃げ出した。


 一転今や、誰の眼にも勝敗は明らかであった。

 やくざ者たちはひいひい泣き喚きながら右へ左へ逃げ惑い、その後を、巨大で不細工な虫たちが執拗にぶんぶんぶんぶんと追い回していく。それにつられて野次馬たちも忽ち狂乱に陥り、大声で騒ぎ立てながら、四方八方へとまるで蜘蛛の子のように散っていった。


「助けてくれぇ、妖怪あやかしだ、妖怪あやかしが現れたよッ」

「とうとう攻め込んできたんだ、もう江戸はお終いだあッ」


 彼方此方あちらこちらから、そんな奇妙な叫び声も聞こえてきた。


(あ、あやかしが攻め込んできた……?)


 腰を抜かして地べたにぺたりと座り込んだまま、雫は周りで繰り広げられている訳の判らぬ騒動を、ただただ茫然と目を瞬かせて見つめていた。


「――大丈夫か、雫」

 何事もなかったかのように駆け寄ってきた颯太は、雫の肩を支えて立ち上がらせてくれる。一方雫は、まだ胸の動悸が収まらない。懸命に頭の中を整理しながら、雫は傍らに何食わぬ顔で立つ少年に向かって尋ねた。 


「あ、あれは……」

「何、案ずることはない。彼奴きやつらを刺したら何処へなりと飛んでいくだろう」

「そうじゃなく! 今のは、一体……」


 颯太が片手に握りしめている、最前まで虫が描かれていた、今は真っさらの紙を雫は見つめた。


 確かに此処から、あの虫たちは湧き出でてきたのである。何やら形がいびつではあったが、しかし間違いなく、あれは生きた虫だった。颯太が描いた戯書が、たちまちのうちに紙から顕われ、すぐそこの中空を飛び回っていたのだ。


 術の掛かった特別な紙なのか。

 それとも筆に、秘密があるのか。

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