その四十三 雫、当然のように墜落する

 一日半ぶりの落下であっても無論一向に慣れない。生憎制服以上に緩い造りである着物は風に煽られ放題、辛うじて帯で留まっているだけで、その大半が脱げている。だがこんな状況では、恥ずかしがる意味もない。


 木刀だけは放さないようしっかと握ってはいたが、しかし内心雫はもう駄目だ、と絶望していた。

 墜ちる先には、固い地面しかない。


(助かりようがない……)


 本当に、泣き出しそうになった。


 墜ちながらも雫は考える。ここは絵巻の世界だ。それは間違いない。しかし。しかしその中でもし死んだならば、自分はどうなってしまうのか。遊戯終了ゲームオーバー、元の世界に帰れるのか。否否、そんな都合のよい話があるものか。そんなもの、遊戯ゲームの中だけだ。


 あの侍の、無惨な死に様が蘇る。

 何時いつ如何なる場であろうとも――死んだらそれまでだ。


「助けて……!」


 そう呟きながら、抗う術もなく雫は、夜空をどこまでも墜ちていった。

 その時。


「……え?」


 雫は気づいた。

 落ち行く自分の真下の地面に――突如として巨大な毛むくじゃらの何かがぶわっと現れた。


「わ、わ、わ、わ、わ!」

 勿論足掻いたところで避けようもない。


 雫はその毛むくじゃらの中に、真っ直ぐ突っ込んだ。


 ふかふかした柔らかい毛と動物の弾力ある躰で、雫はそのまま真上に跳ね上がる。

 自分でも信じられないことに、怪我一つないままだった。


「間に合った――」


 すぐ其処には、真っ新になった紙を広げて脱力する颯太がいた。

「颯太……」


 そうか、こいつは――颯太の絵か。


 月明かりの下、数度小さく跳ね上がるうち、心地よいその動物の毛の暖かさに包まれて、雫の心は優しく静まっていった。

 そっと雫は、その大人しい動物の背から降りる。


 そうして息を吐くと、少し歩いて、黙ったまま颯太の前に立った。

 暫く向かい合う。


 颯太が頭を掻きながらちらちらと見てくるので、何だろうと思って自分の身形を見てみると、着物の前がはだけて中が殆ど見えていた。

「わあ」

 急いで襟を合わせる。別に何も見ておらん、と颯太はぶつぶつ云った。雫も何となく、云い返す気にならない。


 間が保たなくなった雫は、傍らに座する颯太作のもこもこした巨大な動物を見遣って、取り敢えず感想を述べた。


「その……可愛い……羊だね」

「虎だ」

「え……っ」


「――虎だ」 

 颯太の眼が据わっている。


 確かに振り返って見直してみると、毛は黄色いし縞もある。それに確かこの時代、虎は伝聞でしか伝わっていないはずである。北斎や蕭白の描いた虎図など、想像に想像を重ねた挙げ句、実物とは似ても似つかないものになっている。大急ぎで描いたことも考えれば、あまり責めるのも酷だ。


「あ、はい……虎です」

「うん。虎だ」


 ようよう頷いた颯太は、小さな声でこう付け加えた。


「――お前のために、途中で毛を描き足したのだ。文句を云うな」

「あ、ごめんなさい……」

 雫は着物の帯を弄りつつ、俯いた。

 また、二人は黙った。曖昧な時間が流れる。


 ぱぁん――。


 すると、淡い空気を断ち切るように、不意に乾いた音が響いた。

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