終章

その八十八 雫、日常に帰ってくる

「しーずくっ、何見てんの!」

 昼休み、雫が窓際の自分の席でぼう、と空を流れゆく雲を眺めていると、元気よく亜里砂が話しかけてきた。

「……え?」

 いきなりのことで、頭が働かない。

 しばらくそうして呆けていると、亜里砂は、もーっ、と雫の肩を強くバンバン叩いた。そして、笑ってこう言う。


「まーだ引きずってんの?」


「……え」

 ぎくり、として雫は何も言い返せない。

 あはははは、と頭を掻いて亜里砂は続けた。

「そりゃまあ一方的に同盟を脱退したのは悪かったと思ってるけどさー、仕方ないじゃん、おっぱいおっきくなっちゃったんだから」

 今さら縮めるわけにもいかないしねー、と困り顔だか喜び顔だか分からない微妙な表情で、彼女は喋り続けている。

「……ああ」


 そういえばそんなこともあったな、と雫は机に肘をつき、顔を載せる。そして、ようやく今に至って、教室のざわざわとした喧騒が耳に入ってきた。時折こうしてつい、どこかここでない場所を見てしまう。

 そんな雫の態度に困惑したらしく、亜里砂は尋ねた。

「え、何、それじゃないの?」

「いや、まあ、その……色々あって」

 訊かれても、説明のしようがなかった。


 しかし、雫にしては珍しい曖昧な返事にかえって興味を持ってしまったらしい亜里砂は、何々、どしたの、と更に食い下がる。

「何かここんとこ雫、いっそうクールってゆうか、憂いに満ちた美少女、んー何だろ、諸行無常って感じになってる気がしてさ。カッコ良さ三割増しで女の子たちもキャーキャー言ってるし、私としても大いに歓迎なんだけど。ただ今までとはちょっと質が違うから、割と心配だったんだよねー」

「なるほどね……」

 さすがに亜里砂はよく見ているな、と思う。


「何、部活の方? 顧問に怒られたんだって? 太刀筋が教えたのと違うとか、全体的に雑になってるとか。でも強くなったって噂だけど」

「まあね」

 実戦経験を積んでしまったのだから仕方がない。

「でもなんか、ちょっと前よりはだいぶ取っつきやすくなった感じはするよ。みんな言ってる。真面目一徹な雰囲気がなくなって、物腰が優しくて、話しかけやすい感じになったって。ちらほら笑顔も見えるし、ビックリだよ。だからさ、その物寂しげな空気だけ取っ払ったら、素材はいいんだから、男なんか入れ食い状態、てか彼氏の二、三人ぐらい余裕」

「ふうん」


 ――じゃあ、ずっとこのままでいるかな。


 そんな意地の悪いことを、雫は内心考えた。

 すると、はっ、と勘づいたように亜里砂は口元に手を当てた。

「あれ、もしかして恋愛関係?」

 雫は視線を逸らして応えない。

「えー何、恋の悩みだったわけ? 天下の御剣雫が? いやあ、悪いけど興味あるわ。何々、相手は誰? どんな人? 何部? カッコイイ? いやむしろ、あえて奇人変人の類?」

 雫は黙ったまま少しだけ目を細めすがめて、亜里砂を見返した。


「だからそういうところが前以上に侍ぽいって……あ、ひょっとして失恋? だったらゴメン。でもそういうのって、いっそ喋っちゃった方が楽になれるっていうか、私の豊富な経験上そうだから。さあ御剣さん、今のお気持ちは?」

「おっぱいおっきい人には分かりません」

 さらっとそう言い返すと、ふう、と息を吐いて、雫は席から立つ。

 両手を上げて、うーん、と伸びをする。

 

 ――こんなことではいけないんだろうな。


雫は、きょとんとしている亜里砂の顔を見た。

「食堂行こっか」

 そう言って雫は、ちょっと笑ってみせた。

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