その八十七 雫、抱きしめる

 雫は、そう云った。

 颯太は応える代わりに、云った。

「淋しいじゃないか――」


「淋しいじゃないか。哀しいじゃないか――」

「私の大好きだったものが」

「ずっとずっと大好きだった、黄表紙のお話が、読本よみほんの物語が、歌舞伎が、浮世絵が、絵巻物が、絡繰細工が、江戸の町が」

「古き物だ、過ぎし物だと云うて」

「何もかも、なくなってしまう」

「何もかも、消えていってしまう――」


「みんな、みんな、私を置いて、いなくなってしまうんだ――」


 泣き出しそうな眼をしたまま、颯太はただ、そう云った。

 雫は、見つめることしかできない。


 だから、描いたんだね。


 雫は、云う。

 颯太は、頷いた。

 涙が、零れた。


 気づけば、部屋は光に満ちている。白く眩しい光で彩られている。

 見れば、二人の傍に、

 桜がいる。

 巴がいる。

 岬がいる。

 皆、淋しく優しげな眼で、二人を見つめている。

 けれど、光は余りに目映くて、

 次第次第に、部屋も、皆も、薄れ霞み、消えていく。


 雫は、涙を流すと、

 颯太を引き寄せ、抱きしめた。


 二人を残して、世界は消える。

 雫は固く、颯太を抱きしめる。

 頬を触れ合う。

 暖かい、颯太の匂いがした。

 雫にはそれしか、出来なかった。

 涙が止まらなかった。


 淋しかったんだね。

 辛かったんだね。


 雫は、颯太の耳元で囁く。

 颯太は何度も、頷いた。


 やがて、別れの刻が来る。


 二人はそっと、身を離す。

 光に包まれて、颯太の姿も少しずつ、薄れていく。

 二人は何も云わず、見つめ合った。

 雫は何も、云えなかった。


 哀しかった。

 

「雫」


颯太は涙を流したまま、最後に微笑んだ。


「――有難う」


 雫は、数えきれないほど云いたいことがあったのに、

何も云えなくて、

 目を瞑り、白く霞み消えていく颯太を、

 見守ることしか出来なかった。


 最後に見た颯太は、

 暖かく、安らぎに満ちた顔だった。

 

 






 雫は、床の上で気がついた。

 美術館の床に、倒れていたようだった。

「おーい、雫。準備出来たかー?」

 遠くから、祖父の声が聞こえる。

 見れば自分の服も、セーラー服に戻っていた。

 そばに落ちているのは、いつもの竹刀だった。

 目の前の床には、台から転がり落ちたらしい、泡沫絵巻が広がっていた。

 頬に触れる、床の感触が冷たい。


 涙が、止まらなかった。

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