夏の章

その四 雫、墜落する

 ――雫は、まなこを開いた。


 矢鱈やたらに鋭い風音かざおとが、ひゅうひゅうと耳元を掠めている。


 何かに浮かんでいるかの如き、不可思議な心地がする。


 天地の別も俄には知れず、己が何処いずこに居るのかすら分からぬ。


「ここは……?」

 そして、ようやく気づいた。


 ――雫は、空を舞い墜ちている。


「……で!?」

 雫は勢いよく雲海を突き抜け、真っ逆様に地上へ向けて――落ちていた。


「ええええええええええええぇぇぇぇぇぇ!」


 支うるものも何もないままくるりくるりとその身を翻し、雫はただただ墜ちていく。手に持つものは竹刀一振りのみ。白雲と青空が、目前で二転三転する。


「え、わ、うそ、なんで、どうして」


 尋ねたところで空の最中さなかに応うる者など在るはずもなく、悪足掻きで四肢を意味なく振り回しながら、何処どこまでも雫は墜ちていく。制服は脱げんばかりに捲れ上がり、下着は見える腹は臍まで露わになるというあられもない姿であるが、気にしている余裕いとまはない。


 このままでは地面に叩き付けられて、万事休すである。


「よ、よ、よ……ちょっと、よーし」

 雫は何とか持前の身のこなしで、躰の落着く姿勢に持ち込んだ。

 丁度大の字になって、下を向く格好になる。


 ふぅ、と一旦息をついた雫だったが、

「って、別に助かってないぃぃぃいい!」

 寧ろ落ちる先がはっきり見えて、余計に怖い。


 余りに唐突かつ理不尽なこの状況に錯乱しかけた雫は、しかしその時、ふと妙なことに気付いた。

「この、光景って……」


 墜ちていく先に広がる大地、其処に何やら鄙びた雰囲気のある町並みがあるのが、この高みからでも見えた。何処か懐かしく、何処か味のある町の姿。雫はその姿に、確かに見憶えがあった。否、そればかりではない。この上空からの視界。鳥瞰する構図。


 つい先程、見た光景だ。


「これは……絵ま、き……ぃいいいいええええええええ!」


 だが既視感について落着いて考える間もなく――雫は墜ちていった。


 墜ちて、

 落ちて、

 墜ちて、

 落ちて。


 風に弄ばれながら、雫は何処(どこ)までも墜ちていく。

 そうしてふと気づけば――。


 墜ちる先には、若若しい竹林が見えた。


「……え」


 竹のきっさきが、青青しく輝いている。


「もう駄目ぇぇぇええええ!」


 ――しかし。


 運良く雫は剣山のように生え並ぶ竹の合間を抜け、

 三里四方に響き渡る、爆音の如く激しい水音を立てて、

 竹林の中の泉の真ん中へ、狙い澄ましたように、


 落ちた。

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