その三 雫、神秘の絵巻と出逢う
展示台の上にだらしなく広げられたその大振りな巻物は、部屋にある他の品と比べると、少々時代が新しいように見えた。
部屋の薄暗い照明の下であっても、隅々まで描き尽くされたその鮮やかな絵の美しさはよく分かった。祖父のおかげで少なからぬ数の江戸絵画を目にしてきた雫であったが、今目前にしているこの作品が群を抜いているというのは、一目瞭然であった。
江戸の町並みを、空からの視点で描いているのであろうか。遠方には大きく美しい富士の山が聳え立ち、手前では、まるで細密画のように描き込まれたありとあらゆる江戸の風物が、隅から隅まで目を楽しませてくれていた。
侍、町人、商人、艶やかな着物姿の娘たち、そしてあどけない子供たち。その素振りから表情に至るまで、事細かに丁寧に記されている。背景の風景や静物も、まるで写真のように緻密でありかつ巧みであり、のみならず、独特の味わいまでも感じさせた。
そしてそれらの全てが、一つ残らず絵の具で丹念に色付けられていた。小物の一つ、草葉の一枚に至るまで、慈しむように丁寧に、そしてたおやかに描き出されている。生き生きとして今にも動き出しそうという形容が、何よりも相応しかった。
思わず雫も息を呑み、ただじっとその絵に見入った。
「……すごい」
「これこそが、
「雅楽? 聞いたことない……」
「うむ、日本画壇では未だに無視されておる、異端の画家じゃ。
「ダメ人間」
雫はまだ不機嫌である。
「道楽者じゃ。まあその中でも絵描きの方に才があったらしく、細々したスケッチのような物は残っておる。一代の
「身体弱かった割に長生きだったのね」
「図太く生きれば案外人間何とかなる。すると、ここに至って何を思ったか、突如として雅楽はそれまで素振りも見せなかった大作の制作を始めた。この時代誰も目を向けなかった絵巻物などを、全身全霊を傾けて描き出したのじゃ。かくして、余生の全てを注ぎ込み、この傑作は誕生した」
祖父の言葉にふうん、と雫は相鎚を打ち、今一度絵を見やった。
幾度見ても凄みすら感じさせる、圧倒的な出来映えである。
そうするうち、次第に不思議に思えてきた雫は、ふと首を傾げた。
「変わり者だったのは分かったけど……でもこれだけのものだったら、もっと有名になっていてもいいような気がする。
祖父の趣味の所為で、雫も十四歳の女の子らしからぬ渋い知識を身につけてしまっている。それを聞いて、うんうんと祖父は頷いた。
「ま、端的に言えば……趣味に走りすぎたんじゃな」
「趣味?」
「ほれ例えば、この辺りを見てごらん」
そう言うと祖父は、巻物の半ばほどを指さした。
それを見た雫は、眉間に皺を寄せた。
全身を黒服に包んだ見るからに怪しげな人物が、宿屋の屋根の上に乗って、しきりに辺りの様子を窺っている。
「……これ、忍者? 江戸の町に? それも、こんな分かりやすい格好で?」
「どう考えてもおかしいじゃろ? それからこっちも」
「これは……妖怪、だよね。大入道? あ、こっちにも。あそこには、鬼? こっちには、空に凄い大きな鳥が描いてある……」
「町の外のこっちの方では、甲冑着た武者たちが馬に乗って合戦をしとるな。江戸時代じゃのに」
「わ、絡繰り人形が何体も描いてある……と思ったらここには綺麗なお姫様の見返り姿が……こっちには、これは、美少年剣士、かな。斬り合いしてる。あれ? ちょっと待って。こっちでは青々とした葉っぱが樹に付いてるのに、こっちでは紅葉になってない? え? あれは雪? 月と太陽が並んで、え? え? あれ?」
見れば見るほどに、雫は困惑を深めた。
時代は滅茶苦茶、内容に一貫性は全くなく、季節さえも場所によって異なっている。現実的な場面と幻想的な場面も分け隔てなしに、
仕舞いに顔を上げ、雫は問うた。
「何これ」
「じゃから、未だに無視されておるんじゃ。写実画でもなく空想画でもなく、ただただ好きな物がつらつらと並べて奔放に描かれておるだけ。雅楽の好んだ物語に出てくる、
得意げにそう言う祖父に生返事をしながら、雫はもう一度頭から絵巻を見返した。江戸の町の外には、明媚な自然の情景が、水墨画のように迷いなく力強い筆勢で描かれている。
そこまで話した祖父は、ご機嫌を伺うように恐る恐る雫に尋ねた。
「……気に入ったかの?」
「まあ……嫌いじゃない」
素直でない性格の雫にとってはそれが、大いに気に入った、という意味になる。絵巻に見入る雫の姿を見て、祖父は嬉しそうに微笑んだ。
それから雫は改めて、首を傾げてみせた。
「それで、私は何を手伝えばいいの? 絵巻物一巻きを展示するだけならお祖父ちゃんでも出来るじゃない」
「いやいやいや。この絵巻をここに置くということはじゃな、この部屋全ての品の配置にも関わってくるということじゃ。全体のバランス、組み合わせ、その辺も館長たるわしのセンスが問われる。ここにこれを置いたらあそこに甲冑があるのは具合が悪い。あちらに馬具が見えるのはよろしくない。並べ替えねばならん。そんなわけで、力自慢の
「人を金太郎みたいに呼ばないでください」
雫はむっつりと口を真一文字に結ぶ。
とはいえ、学校一の力持ちであることは事実であるから言い返しにくい。一年生の時の文化祭の企画で腕相撲勝負をやったところ、すまし顔のまま来賓の大学生の男まで一人残らず負かしたため、最近ではクラスの男子から「魔人」と呼ばれるまでに至っているのである。
「まあそう言わず。それじゃあお祖父ちゃんはちょっと事務室で用意してくるからの、ちょっとここで、待っていておくれ」
そう言うなり、返事も待たずに祖父は展示室から去っていく。浮き足だったその後ろ姿を見て、雫は軽く頭を掻いた。どうにも物を断れない性分で困る。
そうして雫は、静かで仄暗い展示室に一人残された。
雫は再び、傍らの絵巻へと目を戻す。ぼんやりとした灯りに照らし出された細緻な絵は、どこかうねるような、奇妙で妖しい力強さを感じさせた。雫はじっと、それを見つめる。
今にも、その世界に取込まれそうになるほどだった。
(……一体何を思って、こんなもの描いたんだろ)
ふと雫は、そう不思議に思った。
これが並大抵の思い入れでないことは、一見して雫にも分かる。雫の知る限り、明治時代ともなると外国から入ってきた文物が
一体何のために、描いたのだろうか。
(信じられないくらい心をこめて描かれてるな。でも、病的な怖さとか、凄みとかはないか。というより、何だか……)
考え考え絵巻を眺めているうち、雫は何かに気づいた。
町の外、小さく描かれた竹林の中に、一人の影がある。
――それは、少年だった。
歳も雫と同じくらい、元服も済ませていない、年若い少年の姿である。
稚気に満ちた愛らしい顔立ちで、
「なんだろ……」
気になった雫はそこに、顔を近づけた。
すると。
その少年が、ふいとこちらを見た。
「……え?」
何かの見間違いだろうと、雫は目を擦る。
そんなはずがない。薄暗い部屋だからぶれて見えたのだろう。光の加減で錯覚したのだろう。画が独りでに動くなど有り得ない。そう思う。思うが、しかし、
しかし間違いなく、彼と目が合っている。
雫は、目を逸らすことが出来ない。
「あれ……?」
波打つように絵巻が
天地が淡き光を放つ。
所狭しと描き出された人、物、
雲は
どこからか夏の熱っぽい風が吹き、雫の頬を、優しく撫でた。
人々の生き生きとした
無音のはずの部屋の中で、それらが確かに、雫の耳に聞こえてくる。
「うそ……」
紙に塗りつけられた
美術館の暗い部屋は最早雫の目に入らず、絵巻の世界が、目前の全てとなる。
そして、
そして視界が、
ゆらり、と歪んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます