その五十二 雫、それでも感謝する
「――お見それいたしましたッ」
桜は顔を上げぬまま、湯で濡れた床に片膝を付いた。
天井から水滴が、ぽつりと音を立てて湯に滴り落ちる。
軽く息を吐くと、雫は静かに問うた。
「桜ちゃんは……何者なの?」
「私は――将軍様の御庭番、伊賀組の、くのいちに御座います」
これまでとは少少異なる張りのある声でそう応えられ、ああ、と雫は納得する。そう云えば絵巻にも、忍者の絵が描き込まれていた、と思い出した。
先の鴉との闘いのときも、桜は銃を撃つよりもまるで手裏剣を投げるように直截ぶつける方を得手としているようだった。それもやはり、
「女忍者……だよね」
「左様に御座います。
「殺せ、と?」
はい、と桜は心底辛そうに頷いた。
「人づてにではありますが、昨日そう聞き及びました。姫様にもお目掛けいただいておりましたゆえ内心煩悶いたしましたが、これでも忍の端くれ、何とかせねばと心を殺し、それで結局、御剣様を謀るような真似を――本当に、申し訳御座いませんでしたッ」
泣き出しそうな声でそう云うと、桜は濡れるのも厭わず湯殿の床に平伏した。雫は慌てる。
「ちょっとちょっとちょっと、桜ちゃん、風邪引くから……」
「私など、風邪でも
「そこまで遜らなくても……とにかく顔を上げて」
流石の雫も少し引いてしまうが、桜はぴったりと伏せたまま動こうともしない。顔も髪も浴衣も既に湯でべたべたになっている。
「と、とんでもないことに御座いますッ。そしてそこまでしておきながら何もかもが失敗し、上様の命も守れず、御剣様にもご迷惑ばかり掛け、あまつさえ
繰り返し繰り返し頭を床に擦りつけると、最後に桜はこう云った。
「私など、生きている価値もない
「……いい加減にしなさい」
雫はゆっくりと、云った。
桜は僅かに顔を上げると、潤んだ目を円くして呟いた。
「――は」
「役立たずとかゴミだとか……」
湯船の中にもたれ掛かったまま、天井の隅の方を眺めつつ、雫は淡淡と述べる。
「……そんな人と仲良くしてた私はどうなるの? ゴミ仲間?」
「と、とんでも御座いませんッ」
御剣様が私如きにお付き合いくださったことこそこの上なき
「あのね、私は、そんなゴミ屑みたいに役に立たないどうしようもない人とは、初めから付き合ったりしません。大体……役立たずって、誰にとっての話? 桜ちゃんに町を案内してもらって、どこかのおバカとあっちこっちぶらぶらして、私は楽しかった。私にとっては充分に役に立ってるお友達。でしょう? 上様がどれだけ偉いか私の知ったこっちゃないし、くのいちとしての仕事がどれだけ大事か私にはよく分からないけど……でも桜ちゃんは、それだけしかない人間じゃないんだから。あなたは私にとって、ゴミでもないし、役立たずでもない。それじゃダメかな」
楽しく過ごさせてくれて、本当に有難うね、と雫は笑って告げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます