その三十四 雫、不穏の影が迫る

 気づけば、すっかり日は落ちている。そちこちで道行く者の下げる提灯の光が揺れているが、まともな灯りと云えばそれだけである。また妖怪あやかしがどこからか現れるのではないか、と雫は気が気でなかったが、今度ばかりは桜の手前、逃げるわけにもいかない。


 しかし幸いなことに、三人が宿に着くまで、何事も起こらなかった。


 伽羅倶利屋の軒には夜になると、冗談としか思えないほど無駄に大きい、屋号の筆書きされた提灯が二つもぶら下がる。これがよい目印になっていて、暗い中でも迷わず辿り着くことが出来た。どれだけ巴が効能を狙ってやっているかは知れぬが、少なくともこれが、繁盛の一因であることは確かであった。

 その提灯の前で雫が桜に向かって、一緒の部屋で寝よっか、と戯れに誘い、桜が気を失いそうになっているとき。


 颯太がおい、と雫に声を掛けた。

「――妙な声が聞こえんか」

「声?」

「何か――呻き声が」

「また変な紐引っ張ったんじゃないの?」


 あくまで雫はつれない。意地を張って、怖さを誤魔化している部分もある。

 だが、颯太はあくまで真剣だった。

「何か――此方の、奥の方から」

 云いながら、隣屋との合間の狭く湿った暗い路地を、颯太はひょいと覗き込んだ。それからすぐにまた向き直ると、颯太は雫を見た。

 眉間に深く皺を刻んでいる。

 雫も真面目になって、颯太、桜と共にその路地へ向かった。


「う――う、う」


 驚いたことに――。

 そこにいたのは、瀕死の侍だった。


 血の染みた着物は、そこかしこが裂けている。まるで鋭い爪か何かで剥ぎ取ったかの如く、散り散りに引き千切れていた。そしてそれは着物だけでなく、着物の下の、躰も同じであった。眼を背けたくなるような、酷い様を晒している。雫は息を呑む。

 侍は土の上に俯せになり、乱れた髷に顔色を蒼白にして、虚ろな眼で、何事か云いたげに口をぱくぱくと動かしていた。


「あ、あ――」


「どうしたの!」

 駆け寄ると雫は問う。尋常な事態ではない。

 何者か、途方もなく恐ろしいものに襲われたとしか思えなかった。

 侍は掠れた声で、何とかこう、応えた。


「あ、あやかしに――襲われ」

 そこで酷く咳き込んだ。血を吐いている。ひい、ひい、と息も苦しげで、もう長くないことは明らかだった。何とかその言葉を聞き取ろうと、雫は懸命に、彼の口元へ耳を寄せる。

「ふ、文、文を――奪われた。早くせぬと――江戸が、危ない――ひぃ、ひ、姫が、姫が、あ――あやかし、に――」

 再び、何度も強く、腹の底から咳き込む。


 そして、最後に、

 侍は、動かなくなった。


 雫たちは沈黙する。

 不意に厭な気配を感じ、雫はさっと空を見上げた。

 巨大な真黒な影が、町の外れに向けてばさばさと羽ばたいていくのが、屋根の合間の夜闇に紛れてうっすらと見えた。

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