その三十三 雫、熱を感じる

 そうこうしているうちに、黄昏刻たそがれどきになった。


 子供たちが名残惜しそうに帰る一方で、辺りは段段と薄暗くなってくる。灯りも何もない江戸の町は、忽ち影に満ちた怪しげな雰囲気に包まれ出した。昨日と比べても、日が沈むのが格段に早くなっている。

「……夜が長くなるということは、これから妖怪あやかしが蠢く時間が長くなるということか」

「ん、何か云ったか雫」

 一番名残惜しそうに子供たちへ手を振っていた颯太が、雫の呟きを聞きつけて問う。今日何をしに宿を出たか、微塵も憶えていないらしい。


 唇を突き出して雫は嫌味っぽく応えた。

「べ、つ、に」

「何だ、教えてくれたっていいだろうに」

 意地の悪い女は嫌われるぞ、と聞こえるか聞こえないかの小さい声で颯太は云った。耳聡く聞きつけて、雫は頭に血を上らせる。


「ちょっと、こんなときだけ女扱いか!」

「何時私がお前を男扱いした」

「のっけからふんどしを買い与えておいてよくそんな口が利けるな」

「そっちこそ、段段男口調が板についてきているぞ」

「だからそれもこれも何もかもあんたのせいで……」

「――私は、お前のことは初めから女だと思っている」

「なっ……何を、そんな、今さら、しれっと」

「動揺するところも可愛いな。あはは」

「このッ」


 これ以上ないほど顔を真っ赤にした雫が握り拳を振り上げ、颯太が両手で頭を庇うと、少し離れて二人の様子を見ていた桜が、くすくすと笑い出した。そして云う。

「仲がよろしゅう御座いますね」

 あっさりとそう云われてしまい、雫は何も返せなかった。ふふん、と得意げにしている颯太を横目で見て、始末ばつの悪い思いになる。

 ふと雫は、自分の顔に手を当てる。

 頬の熱は、未だに去らない。


(うーん……これは、ちょっと……マズいな)


 そんなことを考える。

 それから、ふう、と息を吐く。

 そして、思った。

 これは、


 ――これは、そう、絵巻の中のそらごとなんだ。


 すぐ手の届くところでからからと笑っている颯太を見ながら、雫はそう思いこんで、もやもやとした想いを胸の奥底へと押し込めた。


 曇天の所為もあって、江戸の町並みは時刻の割に暗かった。

 三人は宿に向かって歩く。早朝に宿を出たきりで、もう随分刻が経つ。さすがに少し疲れたのか、颯太も余り喋らなかった。一方、昨日は早早に違う方角へ別れた桜が、今日は一緒の方角に歩いている。不思議に思った雫が問うてみると、桜は、

「実は、巴様が、今日は泊めてくださると――それも、只で」

 と心から申し訳なさそうに応えた。


「そ、その、ご迷惑だろうと何度もお断り申し上げたのですが、一切聞き入れていただけず、そればかりか、これ以上断るようならこちらとしても出る処に出る、などとおっしゃって――」

「まあ……酔狂な人みたいだから」

 何処に出る気だ、と冷めたことを思いながら、雫は肩を竦めた。

 桜はか細い声でこう続ける。

「兎に角――御剣様と同じお宿で休めるとは――桜は果報者です」

「え? 今なんて」

「何でも御座いませんッ」

 慌てて桜は打ち消した。雫は首を傾げた。

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