その二十八 雫、大鴉について教わる

「あのぅ――よろしいでしょうか」


 すると、遠慮がちに桜が口を開いた。雫は尋ねる。


「どうしたの?」

「実は、昨日の帰り際のことなので御座いますが――こちらの宿へ向けて、一羽の大きな大きな鴉が飛んでいくのを眼にしました」

「カラス?」


 そう云われて雫は一瞬戸惑うが、すぐに昨日のことを思い出した。桜と別れるときに見た雄大な富士の姿、そしてそれに被さるように飛んでいく、大きな鳥の影。ひょっとすると、あれのことだろうか。雫は眉を顰める。


(あれが、カラス……?)


 それにしては随分、大きかった気がした。桜は続ける。

「最近町の中でも、あちこちで頻りに鴉を眼にいたします。今朝方も、そこいら中で見かけました。普段はさほど、多く目にする鳥では御座いませんから――」


 桜のそんな言葉を聞いて、雫は一瞬首を捻ったが、すぐに、

(ああ、今の日本みたいに一杯餌場もないから、まだそんなに数が増えてないんだ……)

 と思い直した。


「初めは偶偶だろうと思っていたのですが、昨日の今日でそのようなことがあったのなら、何か関わりのあることなのかも――」

「鴉が来て、それが妖怪あやかしを運んできたって云うのかい」


 半信半疑と云った風でニヤリと笑うと、巴は云う。


「あたしの宿に妙な物連れてくるようなのがいるんなら、あたしがお手製の大砲おおづつと改造種子島ひなわじゆう引っ張り出して、一撃で仕留めてやるんだけどねェ」

「大砲って……」


 何やら物騒なことを云いだした巴はさておいて、雫は腕組みをすると、考え始めた。

 ――そのおおがらすがもし、邪鬼のすだまこごったもの、だとすれば。


 桜の言が確かなら、それを打ち倒せば妖怪あやかしどもは消え去っていくということになる。仮にそれが邪鬼そのものではなくとも、江戸がこのような状況になっている以上、無関係ではあるまい。調べる価値は充分にある。

 桜は更に云った。


「それに、昨晩は町中にもこれまでとは比べものにならぬほど多くの妖物が現れた、と人の噂に聞き及びました。御剣様方がご覧になったのも、もしかするとそのうちのものではないかと」

「ふむ。あの妖怪共を鴉が呼んだか、或いは逆に、鴉の姿をして町に忍び入ったか――どちらにせよ、ありそうな話ではあるな」


 ようやく目が醒めてきたらしい颯太は真面目な顔でそう云ったが、またすぐ大欠伸を漏らした。このまま昼寝する、等と云いだしたらどうしよう、と雫は懸念する。

 我儘なのは姫と同じだが、あちこち彷徨うろつきまわる分、颯太の方が余程性質たちが悪い。しかしこれ以上悩みの種を増やしても仕方ないと思い、雫はそれについては忘れることにした。


 そうして顎に手を添えつつ、雫は考えたことを口にした。

「でも、そんな大きなカラスが人目に付かずに居られる場所なんて、あるのかな。妖怪なら自由に姿は隠せるのかも知れないけど……」


「――だ、か、ら」


 その時、苛立ちを無理に抑えた声音で、浄瑠璃姫が云った。


「それを調べるのが、そなたの仕事ではないのか御剣」

「え?」


「まだ昼前ぞ。侍が何時いつまでのうのうと屋敷の中でくっちゃべっておるのじゃ。わらわを助けるのであらば、事が起こる前に手を打つのが筋であろう。ええ。違うか」


 身を乗り出すなり般若の形相で姫は睨め付けてくる。怖い。言い訳を考える前に、ハイ左様に御座います、と雫の口から自然と出た。傍らでは巴が、猫のようににやにやと笑っている。


ならば何をしておる、と云って、姫は手に持っていた扇子でパンパンと畳を幾度も強く叩いた。


「ほれ、判ったらうぬら、とっとと出て行かぬかッ」


 尻を蹴り飛ばされる前に、雫と颯太と桜は部屋から飛び出した。

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