その六十 雫、気づかれる

目の前の通りでは、颯太が一所懸命に雪達磨を作っていた。颯太は胴を、岬が頭を作っている。二人で競い合って、どちらもやたらと大きな玉になっていた。仲がよいのか悪いのかよく判らぬ。

「颯太。風邪を引くよ」

 雫がそう声を掛けても、ああ、とかいう生返事しか返ってこなかった。霜焼けで手を真っ赤にしているというのに、気にも留めていない。無心で遊んで、厭なことを忘れようとしているのだろうか。


「おい岬。釣り合いというものを考えろ。胴より大きい頭があるか」

 颯太はそう云って、岬に思い切り雪玉をぶつけられている。

 やり返している内に、雪合戦になっている。

 そうして仕舞いには、岬の鷹に追い回されて大騒ぎになっている。

 ただ遊んでいるようにしか見えぬ。

 雫はふう、と息を吐く。


 ――まああれはあれで、気を張っているのかな。


 姫の部屋から出た後は、それでも暫く塞ぎ込んだ様子だったのだ。

 遊ばせておいてやるか、と雫は思った。


 そうしている内にも、事態は刻刻と進んでいるようだった。ただの噂に過ぎなかったはずの戦の話が、町中にも広がりだしているようである。其処此処そこここに立つ人人は互いに話しては、怯えている。これまでとは明らかに違う、得体の知れぬ不安が、そんな町人たちの顔色から窺えた。雪道を駆ける童たちもそうした大人の畏れを鋭敏に感じ取って、折角の雪遊びにもどことなく気が入っていない。時には、荷車に家財を乗せて行く者すらいた。しかし、何処へ逃げるというのだろうか。


 ――所詮この世界から、逃れることは出来ぬと云うに。 


「御剣様。私でよろしければ、城に忍び入って探って参りますが」

 不意に、静かな口振りで桜は云った。

 突然の申し出に、一瞬雫は迷った。頻りに謙遜してはいるが、桜ならば何かしらのことは掴んできてくれるだろう。それに向こうは、桜が雫の側に付いたことをまだ知らぬのだ。

 邪鬼の魅に取憑かれた何かが、あの橋の向こう、武家屋敷や城の中には、いるのかも知れない。


 しかし、逡巡した末、雫は首を振った。

「いや、いいよ」

「御剣様――」

「桜ちゃんを信じていない訳じゃない。ただ……」

 雫は、己の腰に差した叢雲の剣を見遣る。


 この刀は、斬れる物を斬らず、斬れぬ物を斬る刀であると云う。

 雫は想像する。例えば桜が掴んだ事実を元に、何とかしてあの城へ攻め入る。立ち籠める邪鬼の魅に侵されて、城の従者は正気を失っているであろう。何処に魅の凝りが潜んでおるかも知れぬ。

 ならば、その根源に至る前に、雫は無用の殺生をせねばならぬ。

 城を守るため襲い来る侍どもと、剣を交えねばならぬ。

 勝つか負けるかの問題ではない。

 この刀は、そのような使い方をするものでは、ないのだ。


 間違っても、人を殺すためのものではない。雫はそう信じる。臆病者と嗤われようが軟弱者となじられようが、この清純な太刀が悪意のないただの人を斬るために使われるのは、誤りだと思う。そんなことをしては、喩え江戸の町を護ったところで誰も救われぬ。誰よりも、雫自身が報われぬ。

 そして、颯太もそんなことは望まないだろう。

 そんな悔いを残しては――。

 雫が絵巻の世界から脱することなど、何時までも叶わぬ。

 それでは、意味がないのだ。


「――御剣様」

 ふと、桜が呟いた。

「もしや御剣様は――お望みではないのではありませぬか」

「……何を?」

「邪鬼を――打ち倒すことを」

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