その八十二 雫、醜怪なる者と相まみえる

「浄瑠璃姫の心のうろは、我の凝ったすだまで日に日に満たされ――」


 躰中に口がある。

 躰中に眼がある。


 数えきれぬそれらがぎょろぎょろと何かを求めるように蠢いて、腐れ爛れた声で、雫に話しかける。

「――やがて人を辞め、邪なる鬼になった」

 頭と思しき辺りから生えた薄汚い髪が、板張りの廊下にべたりと付くほど長く伸び、意志を持つかのように這い回り、のたくっていた。

 雫は感じた。

 これは、妖怪あやかしですらない。


 ただ、ひたすらに――厭な物だった。


 恍惚とした眼で、その厭な物は呟いた。

「幸いなるかな」

 突然、桜が動いた。

 前振りなく走り出し、廊下への段を素早く駆け上ると、少女は苦内くないを振り上げてその化物に投げつけた。 

「東雲様を返せッ」


 苦内はそのまま、化物の頭の真ん中を直撃する。相手は避けるでもなく、黒光りする武器は、深深と正面から突き刺さった。


 しかし。

 刺さっただけだった。


「桜ちゃん、危ないッ」

 何の痛みも感じなかったらしい化物は、無数の眼を桜の方へ向けると、億劫そうに腕を伸ばす。青ざめながら、桜は後ろへ退いていく。

 だが、それと同時に伸びていた髪が、桜の脚に固く巻き付いた。

「なっ――」

 そのまま桜は、逆さに吊り下げられる。


 ぼそぼそぼそぼそと躰中の口が疎ましい云い振りで話し続ける。

「我は死なぬ。邪執は消えぬ。この世は須く邪なり。しからば何故なにゆえ世を救わねばならぬ。移ろい変わり失われ、ただ残るのは邪のみ。斯様なものに、何故なにゆえ情けをかける。何故期待を抱く」

「このッ」

 雫は叢雲を手に廊下へと駆け上がり、桜を吊る髪に斬りかかった。利刀がごわついた太い毛の束に、がっしと食い込む。


 だが、斬れない。

 何度振り下ろしても、斬れなかった。


「この、このッ、このぉッ」

「邪念断ち切れず」

 そう云うと、化物は無数の口でげたげたげたと嗤った。

 それから、空いた大きな毛むくじゃらの手を握り拳にすると、化物は雫に向かって振り下ろす。すんでのところで雫は避けた。拳は廊下の床板をへし折り突き破って、大きな穴を開けた。

 桜に巻き付く髪は増えに増え、きつく締め付けている。

「がっ――くっ」

 苦しむ桜の声が、雫の元にも届いた。


 怒りに身を震わせた雫は、ただ闇雲に斬りかかり、化物の腕に叢雲を振り下ろし、脚に振り下ろし、胴体からだに振り下ろす。


 しかし、斬れなかった。

 醜い肉の塊はいくら斬っても、斬れなかった。

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