春の章
その六十六 雫、愕然とする
あはははははははははははははは。
腐れ爛れた嗤い声が耳を衝く。
文から顔を上げた雫は、己が目を疑った。
美しかった姫の容貌は、最早欠片も残っていない。黒眼と白眼が入り混じり斑紋様になった
町の炎を背にして、本性を顕わにした妖しき姫は――。
ゆらりゆらりと左右に揺れながら、雫に云った。
「御剣。そなたまだ気づいておらなんだのか」
愚か愚か、と、実に愉快げに嗤っている。
文をその場に取り落とした雫は、逃げることも忘れ、ただ茫然としていた。
「一体……いつから」
「初めからじゃ。町でそなたに助けられたとき、否、屋敷を抜け出したときには既に、この躰じゃ」
「邪鬼の……
「左様。今の
何処を見ているか知れぬ眼で、姫は雫を凝視している。時折意味もなく、四肢を蠢かした。収まりきらぬ何物かが、中で身を震わせているかのようであった。
「何時気づくか何時気づくかと思うておったが、結局最後まで気づかなんだか」
「御剣様、支度が調い――」
岬をつれて戻ってきた桜が、雫の肩越しに部屋の中を覗き込んで、絶句した。岬は幼子らしからぬ表情で、眉間に硬く皺を寄せている。
「ちょっとあんたたち。まだこんなところにいたのかい。さっさと逃げないとこのままじゃうちの宿も――」
廊下で固まっている雫たちを見咎めた巴も、三人の傍らに立つなり、顔を歪ませ口を噤む。
そして、にやりと皮肉に笑った。
「――姫様。暫く見ないうちに随分お変わりで」
「巴。そなたにも世話になったのう。礼を申すぞ」
雫は次第に、怒りを感じ始める。
「じゃあ……お城の人たちが姫を狙っていたのも」
「当然のこと。
――全部、逆だったんだ。
今になって漸く、雫は全てが判った。
取憑かれた城の者たちが姫を追っていたのではなく。
取憑かれた姫を、城の者たちが追っていたのである。
将軍からの戦への指示が減ったのも、妖怪に憑かれたからではない。戦以上に速やかに倒すべきものを見つけたから、戦どころではなくなったのであろう。
桜が城から渡されたままに貼ったあの文も、姫を城に渡さねば江戸が妖怪に襲われる、と云っていた。あれは脅し文句ではない、文字通り、姫自体が危険だと云うことだったのだ。
「この江戸を手中に収めるため
雫の脳裏に、これまで起きた様々な出来事が蘇る。
それぞれの意味が、全て逆に塗り替えられていく。
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