その二十三 雫、おそるべき文を受け取る
理由は判らぬ。何となしにそう思ったに過ぎない。
だが雫は今、歌方雅楽の描いた物語の中に居る。そして、どんな物語も何時しか終わるのだ。ならばそのきっかけが、何処かにあるはずである。何とか雫はそれを掴んで、物語の先へ進まねばなるまい。幕を下ろさなければ、何時までもこの世界で彷徨う羽目になる。
それに、このまま何もしないよりは、動いた方がよいだろう。
――どうせ動くのなら、真っ向から立ち向かってやる。
雫は背筋をすっと伸ばすと、静かに頭を下げた。
「分かりました……謹んでお受けいたします」
そうか、そうかと嬉しそうに姫は頷いている。その無邪気な様が意外なほど可愛らしく、雫はほっと息を吐いた。これからどうやって姫を守ればよいのか、正直云って雫には皆目見当が付かぬが、しかしこうなった以上、やるしかない。
ふと気付けば、颯太はそんな雫の覚悟を知ってか知らずか、雫をちらりと眇めて、その涼しげな口元に僅かな笑みを浮かべていた。
「はあぁあああ~……」
夕暮刻の薄暗い宿の廊下を一人腕組みをして歩きながら、雫は実に情けない溜息を吐いた。
するとそれと同時に、廊下の壁に掛かった巴手製の時計の蓋がぱか、と開いた。中から犬の人形が出てきて、うわん、と鳴く。
戌の刻らしい。それを横目に見て、辰の刻や巳の刻はどうするんだろう、と雫は
あの後浄瑠璃姫は、胸元から取り出した紙の雛人形のようなものを、いそいそと部屋の四隅に置いていた。卒塔婆に書いてあるような文字が記されていて、姫によると魔除けになるらしい。
そんなものを持ち歩いているあたり、彼女とその一族が魔物に狙われているというのは、何かしらの力や由縁があってのことなのかも知れぬ。
そうしてから再び元気な態度に戻った姫は、
「御剣よ。間違ってもわらわが襲われることのないよう万全を尽くせ。命を賭して戦うのじゃ、死んだら墓くらいは作ってやろうぞ」
と云いたい放題だった。
颯太は颯太で、
「よかったな雫、姫様に取り立てていただいたではないか、一日にして大出世だ、あはは」
とまるきり他人事である。
雫が全力で睨み付けても平気の平左で、お気楽な様子は一向変わらなかった。協力する気は芥子粒ほどもないらしい。
一方雫も守ると云ったはいいものの、さてこれからどうすればよいのだろう、と次第に頭を抱えたくなった。
いくら剣術兵法に通じていたところで、真剣を相手にすれば昼間のようになるのが落ちである。ましてこれから相手にするのは、
さしもの雫も、さっぱり自信が持てなかった。
こうして姫の部屋を一人先に出た雫は、現実の世界では滅多に感じない不安にまといつかれ、陰陰滅滅たる心持ちで宿の廊下をふらふらと歩いていたのであった。
別段何処へ向かうわけでもない。外出するわけにもいかぬから、宿の中を
すると。
不意に妙な物が、雫の視界の隅に入った。
廊下の先、突き当たりの柱。
そこに――一本の棒手裏剣が突き立てられていた。
雫は眼を疑った。
足早に近寄ると、雫はそれをじっと見つめる。黒黒と光る鉄の棒は、美しく整えられた宿の中、一際に異様を呈していた。そしてそこには手のひらほどの小さな紙が、柱に打ち付けるようにして留められていた。
短く簡素な文が、墨でこう書きつけられていた。
「じゃうるり姫を、しろへ渡せ
さもなくば、江戸の町は
あやかしに襲はれる」
手裏剣を抜いて紙を手に持ち、雫は幾度もその文面を読み返した。
それから咄嗟に振り向くと、姫の居室を見遣り、続けて辺りの気配を伺った。当然ながら怪しげな者は、既に何処にも見当たらない。だが、
――何者かは判らぬが、既に動き始めている。
姫は確かに、狙われているのだ。
厭な予感に、雫は下唇を噛んだ。
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