その二十六 雫、この世ならざる者に怯える

 ――ばん。


 天井から、大きな音がした。


 ばん、ばん、と、何かが強く、頻りに天井板を叩いている。

 何が、かは判らない。


 再び二人が正面に向き直ると、部屋の中央には、何時の間にか布団が一組敷かれていた。その中には、こちらに背を向けて、見知らぬ女が眠っている。


 雫はまた、厭な予感を覚える。


 そうして見ている内に、次第次第と浴衣から伸びる女の首が、長くなっていく。ずるずるずるずると、引きずり出されるようにして伸びていく。女はまだ、此方に顔を見せない。首だけが、暗い部屋の中を煙のように揺らめいている。


 雫は、一歩も足を踏み出すことが出来ない。


 ふと見遣ると、床の間に掛けられた掛け軸の中に、毒毒しい顔をした女の絵があった。

 女は此方を見て、けたけたと嗤っている。


 けたけた。けたけた。けたけた。けたけた。

 けたけた。


「こ、れ……颯太の絵じゃ、ないの……」

「――見れば判ろうが」


 美しく流麗に描かれた女は、胡乱な眼をして、お歯黒を晒し、

 無為にけたけた嗤っているだけだった。


 気がつけば正面、びっしりと眼の憑いた障子の向こうに、

 大きな大きな、影が映っていた。


 影はぼやけて、姿が判然としない。

 しかし、手に何かを持っていることだけは判った。


 そしてその何かを振り回しながら、

 それはゆっくりゆっくりと、

 此方こちらに近づいてきている。


 近づいてきている。


 近づいて、きている。


 そこが――雫の限界だった。


 雫は声も上げずに身を翻すと、何時の間にかに元に戻っていた背後の襖を勢いよく開けて、颯太を引っ張ったまま、真っ暗な廊下へ飛び出した。


 ――厭だ、厭だ、厭だ。


 走って、はしって、走って、はしって。

 目を瞑ったままの二人は、虚ろで禍禍しき者共から、懸命に逃げた。


 すると。

 突然どん、と雫は何かにぶつかった。


 そのまま思い切り尻餅をつく。つられて颯太も、廊下に転がった。

 ――何だ。今度は、何だ。


 怯えた雫は身を竦めたまま、目を開けることすら出来なかった。

 しかし、頭の上からはこんな声が聞こえた。


「こんな夜中に何してるんだいお侍様、東雲様まで。危ないから廊下を走るんじゃありませんよ」

 目を開けてみれば、それはきょとんとした顔の巴だった。片手に行灯を提げている。

 半端にはだけた浴衣が、やけに色っぽかった。


「は、はは……」

 すっかり力の抜けた雫は、何も云い返せなかった。

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