秋の章

その二十五 雫、ばけものから逃げる

「ぎゃあああああぁああああぁあああああああ!」


 耳をつんざく叫び声を上げると、寝ぼけた颯太の手を引っ掴んだまま、雫は廊下を全力で駆け出した。蝋燭の火が消えて、辺りはとばりが落ちるように暗くなる。


「な、なんだなんだ雫」

 漸く目を覚ましたらしい颯太が引きずられながら混乱して問うが、しかし雫に応える余裕などない。今の化物の澱んだ笑い顔が瞼にべったりと焼き付いて、雫はもう、振り返ることすら出来ない。


 廊下の突き当たりまで来たところで何とか足を停めると、雫は其処にあった柱に手をついた。息が出来ない。何も考えられない。またしても悪夢に呑み込まれたような心地がする。


 一方で颯太は口を開けたまま、ぽかんと呆気にとられていた。

「おい雫、どうしたというのだ」

「どうしたもこうしたもない! 今、さっき、なんか変なのが……」

 と、ここまで云ったときだった。


 雫は何か、掌に、妙なごりごりとした感触があることに気づいた。

 自分が手をついている、その柱を見た。


 すると、節くれ立った古木の柱に、

 幾つも幾つも、老人の顔が浮かび上がっていた。


 ぎょろぎょろとした眼で、此方を見ている。

 そうして彼らは、ぼそぼそと喋っている。

 妙な感触は、掌の下で彼らが鼻を蠢かしているからだった。


「ひ、わぁああぁああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 雫は諸手を挙げると、また違う方向へ走り出した。蝋燭はもう手元にない。今度は颯太も、顔を引き攣らせている。雫も丸腰ではどうしようもなかった。否、刀を差していたところで何が出来たわけでもなかろう。そのまま何も考えず、ほとんど目を瞑って二人は走り続ける。


 すると――今度は下の方から、自分にぴったりと寄り添って走るような、ことことという小さな音が聞こえた。


 ことこと、ことこと。


 あからさまに厭な予感を感じて、雫はそっと眼を開くと、己の足元を見た。

 其処には――身の丈四尺はあろうかという大きな鼠が、老僧の如き奇っ怪な顔を雫の方に向けて、寄り添うように走っていた。


 ぎろりと雫を見上げたそれは、歪んだ声でこう云った。

あれかにもあらず」


 云うなり、天井からぼたぼたと、

 数えきれない程の小さな鼠が落ちてきた。


 悲鳴を上げる余裕もなく、雫はそれらを振り払い蹴り飛ばす。そして、手近にあった襖を開けると、その中へ颯太と共にまろび入った。


 力任せに襖を閉じる。途端に辺りが、しんとなった。荒い息を抑え、気を静めながら、雫は周りを見廻した。其処は、畳敷きの小さな客間のようだった。こぢんまりとした、感じのよい部屋であった。


 だが――。


「こんなところに、部屋があったか――」

 ぼそりと颯太が云う。え、と雫は漏らす。


 その時。

 ――ぱちり。

 瞼が開く音がした。


 窓の棧に張られた障子の全てに、びっしりと張り付くようにして大きな眼が、眼が、眼が、眼が、眼が、眼が、眼が、


 眼が。

 数え切れないほどに、在った。


 眼の群は雫を、気が狂わんばかりに強い眼差しで、じっと見ていた。


「あ、あ、あ……」

 雫は震えて後ずさりながら、背後に在るはずの襖の取手をまさぐった。


 しかし、襖は開かない。ぴたりと閉まったまま、微動だにしない。否違う、何時の間にか、襖はなくなっている。雫は振り返った。


 背後は、ただの壁になっている。

 隣に立つ颯太も、ひたすら茫然とするばかりだった。

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