その十四 雫、颯太の前で逡巡する

「おや、ようこそいらっしゃいまし――姫様ッ」


 中に入った雫たちを愛想よく出迎えた番頭は、雫の背中の荷物に気づくなり、いきなりこう叫んだ。


 心身共に疲れ切った雫は、ぽいと投げ出すようにしてその姫様を上がり框に下ろす。ようやっと息を吐きながら改めて周りを見廻してみれば、内は幸いにもなかなか立派な造りをしていた。こざっぱりとしながらも、なかなかに趣がある。流石に評判を呼ぶだけのことはあった。


 それだけを確認するなりむっつり塞ぎ込んで何も云わなくなった雫に代わって、颯太が慌て顔の番頭に尋ねた。

「このお方の宿は、此方でよいのか」


「あ、は、はい、左様に御座います」

 曖昧に頷きながらも、番頭は妙に背後の奥向おくむきを気にしている。


 宿の主人でもいるのだろうか、それともこのひと、やはり訳ありなのだろうか、などと雫は茹で上がった頭で考えた。それにしては当の姫様は、気楽にもまだ大人しくすやすやと寝入っているのであるが。


 颯太は続けた。

「どのようなお方かは知らぬが、ちょっと仔細あって気を失われたものでな、こうしてお連れして参った次第だ。これでよろしいかな」

「はい、有難う御座います。お帰りが遅う御座いましたから、何かあったのではないかともう心配で心配で」


 人のよさそうな番頭は、相好を崩して何度も何度も頭を下げた。うんうんと大人物のように頷いていた颯太であったが、不意に何事か思いついた顔になると、番頭に向かってこう云った。


「――うん、そうだ、ことの序でだ。唐突で悪いが、私と、こちらの麗しいお侍様も、此方に泊めてはもらえぬかな」

「はぁ!?」


 それを聞いた雫は、框からばねのように跳び上がった。


 胸ぐらを掴みかねない勢いで颯太に詰め寄ると、口早に小声で云い募る。

「ちょ、ちょっとあなた、いきなり何訳分からないことを……」

「何が訳判らないだ。雫は泊まるところはあるのか」

「いや、それは……」


「何が起きたかよくは知らぬが、空から墜ちてくるとは雫もなかなか訳ありの様子だからな――それに、斯様な珍奇な装いでそこいらを彷徨うろついてみろ。またさっきのように目を付けられて、騙されるか連れ去られるか、何かの間違いでお縄を頂戴するかも知れん。加えてそなたの場合、性格も性格だ。何かと危険極まりない」


 雫はそれを聞いて頬を膨らませ、口を尖らせた。颯太は嘆息する。


「だからそういうのが危ない。その上万万が一女子おなごとばれた日には、何をされるか判ったものではないぞ。ここまで来てそなたがそのような目に遭っては私も寝覚めが悪いからな、袖振り合うも多生の縁だ。少しの間なら面倒を見てやろうと、こう云っているのだ」


 滔滔と説教を垂れる颯太を目前にして、雫は暫し、逡巡した。


 確かに颯太の云うとおり、何が起きたかも未だに判らぬこの状況では、頼る先など何処にもない。元の時代に帰るあてすらないのに意地を張ってここを辞去すれば、ふらふらと町を彷徨ほうこうした揚句野宿するのみ、下手をすれば野垂れ死にである。本来ならば、迷う余地などない。


 そう考えて視線を上げると、颯太と目が合う。


 歳の割にあどけなさが過ぎる少年絵師は、腕組みをしたまま雫を見据えている。

 ――こいつに任せてよいものか。

 そう雫は思い悩む。


 ううん、と小さく唸りながらも、しかし仕舞いに、雫は渋渋と頷いた。もう、仕様がない。なるようになれだ。


 そんな雫の表情を見た颯太は、飼い犬を漸く手懐けたような会心の笑みを浮かべた。

「うんうんうん。素直に私に頼ればよいのだ。素直になれば雫もなかなか可愛いではないか。あはははは」

「ムカつく……」

「なんか云ったか」


その時――。

 不意に何処か、近くから声が聞こえた。


「――どうしたどうした、姫様のお帰りかい」

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