その十七 雫、気がかりなことを尋ねる

 雑然としながらも独特の生気に満ちた江戸の町並みは、普段沈着な雫の心をも、何処か浮き立たせる。そちこちの物珍しい光景に眼を向けつつ、雫は隣を歩く桜に声を掛けた。


「桜ちゃん」

「あ、はい」


 ぴくりとして、慌てて桜は雫を見る。その素振りや身のこなし、僅かに赤く染めた頬は、雫の女の眼から見てもたいそう可愛らしかった。

 雫は笑みながら尋ねた。

「あの女将さんって……どういう人なのかな。あの宿の趣味は多分あの人のものだと思うんだけど。若いし、変わり者みたいだし。何か知らない?」


「はあ、何でも先頃先代がお亡くなりになって、あの方が継がれたというお話ですが――伽羅倶利屋という屋号は先代から付いたもののようで御座います。先代が大層絡繰物を好むお方だったそうで、買い求めた人形や細工を以前より部屋に飾っておられたとか。そして幼い頃からそれらに囲まれて育った女将さんは、仕舞いにご自分でも作られるようになって、それで今では、あのように」

「なるほどね……」


「ただとても頭のよい方だそうで、宿もほとんどお一人で切り盛りしておられるようです。お代は安く、それでいて持て成しの方も他所よりも余程しっかりとして、あの方の代になってから一層名を挙げたという、専らの評判で御座います」


 そう聞いて雫は頷く。確かにあれだけ好き放題に飾り立てておきながら評判はよいというのだから、大したものである。屋根裏で独り何をしていたのかは判らぬままだが、あまり人前に出るものではないと彼女なりにきちんと弁えているのだろう。雫は感嘆する。


「凄い人なんだ……」

「御剣様も素敵で御座います――」

「え?」


 考え事をしていてちゃんと聞いていなかった雫は桜に問い返したが、小柄な娘は、何でも御座いません、とふるふる首を振るばかりであった。ふうん、と雫は首を傾げた。


「おぅい」


 すると、何処からか間の抜けた呼び声が聞こえた。

 振り返れば、何時の間にか隣からいなくなっていた颯太が、此方へ走り寄ってくるところだった。手に何かを握っている。 


「侍だと云うのに脇差がないでは不自然だろう。これを持て」

 そう云って颯太は、どこからか買ってきたそれを雫に手渡した。見るとそれは、飾り気のない刀二ふたりであった。しかも妙に軽い。


 颯太はニッと笑う。

玩具おもちやの竹光だが、ないよりマシだ」

「ありがとう……」

 珍しく雫は、素直に感謝の言葉を口にした。


 こうして賑やかな町のあちらこちらを巡り、桜の案内を聞きつつ、雫は颯太と共に歩いた。そうしながら考えるうち、雫の胸中には或る仮説が浮かび上がってきた。空を墜ちていく時からすでにぼんやりと考えていた、今の摩訶不思議な状況を説明する一つの「可能性」である。


(まさかとは思うけど……でも、この状況で「有り得ない」なんてことは何も言えないし……)


 冷やかしに入った浮世絵屋から三人揃って出ると、雫は宿を出てこの方ずっと気になっていたことを、桜に尋ねた。


「あの、桜ちゃん。さっき巴さんが言っていた『いくさ』って……あれ、どういう意味?」

「え、御剣様も東雲様も、其処を抜けて来られたのではないのですか」


 目を円くした桜に逆に問い返されて、雫は困ってしまう。まさか空から降ってきました、とは云えない。

 すると、助け船を出すつもりなのか、代わりに颯太が応えた。


「いや、私たちは途中で偶さか一緒になったのだ。私はその戦場を何とか越えて来たが――雫はどうも近頃の江戸周りの事情を、よく知らぬらしい」

「左様に御座いますか――」

 俯き加減に首肯すると、桜は暫し口を閉ざす。


 そして、判りました、と云って、その「事情」を訥訥と話し始めた。

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