その六 雫、都を目の当たりにする

 雫は、下衣スカートを間近で興味深そうに眺めている颯太に向かってこう云った。


「その、颯太君。よかったら町まで連れていってくれませんか?」

「うむ、よいぞ。こっちだ」


 すぐに承知した颯太は、近くの岩の上に置いてあった荷物を手早く纏めると、雫の先に立って機嫌良く歩き出した。筆のようなものが幾本か風呂敷包みからはみ出しているのが見えて、雫は首を傾げる。二人はそうして、池の端を後にした。


 歩いていると、そよそよと風が竹の葉を靡かせ、気の冴える薫りが鼻を擽る。心地よいことはよいが、濡れた衣服を身に纏う雫には、少々寒く感じられた。颯太の後に続きながら、雫はへくし、と小さなくしやみを洩らした。


 そんな姿をちらりと見た颯太は、不意に前を指さした。その先を見れば、竹林が拓けて、向こうから陽光ひざしが射し込んでいた。眼を細めて颯太は云う。


「何、今は夏の盛りだ。歩いておれば着物などじき乾く――」

 竹林を抜けると、目映い光で一瞬眼が見えなくなる。 

「――ほれ、あれが江戸の町だ」


 眼が慣れてくるにつれ、雫にもそれが見えてきた。

「うわあ……」


 其処には――おのまなこを疑うほどに大きく賑やかで、そしてどこか優しく、懐かしい町並が、広がっていた。


 竹林は小さな丘の上にあったらしく、出た処からすぐに、その町の全景を見下ろすことが出来た。竹林から伸びる荒れた路の両側に、次第次第と掘建ほつたて小屋が建ち並ぶようになり、その次は貧乏長屋、奥へ進むに従って、そうした住居の群は、立派なものへと変わっていく。


 往来を行き交う人、人、人。


 駆け回る粗末な着物を着た子供たち、その周りを駆け回る野良犬、長屋の端で喋る女房連中、見るからに胡散臭げな小男。

 ひょいひょいと行く駕籠かごに、涼しげな音を鳴らして風鈴屋が横切る。


 店屋と思しき一際ひときわ目立つ屋敷には、家紋を染め抜いた幕が下り、休む間もなく客が出入りしている。

 茶屋の店先では、くつろいだ風の男女が、団子を口にしては笑い合っていた。


 更にその先では川に反橋そりばしが架かり、絶える間もなく人人が渡っている。艶やかな姿の娘子たちもいれば、胸を張って歩く侍の姿もある。

 商家、旅籠はたご、芝居小屋、寺に神社。騒がしい声が、此処まで聞こえてくる。

 橋のずっと向こうには、豪奢な屋敷が建ち並んでいて、そして最奥さいおうに見えるのは、美しい天守閣を持つ城だった。


 ――それは紛れもなく、生きている町であった。


「これ……本物の」


「本物の、江戸だが。どうかしたか。さあ雫、こんな処でぐずぐずしていると、いつ何時なんどきくだんの合戦に巻き込まれるか知れん――ほら、行くぞッ」


 茫然としたままの雫の手を躊躇いなく取ると、颯太は町へ向かって歩み出した。

 手を引かれながら、雫はまだ、信じられない。


 何故かは判らぬが――。

 雫は、江戸時代に来てしまったようだった。

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