その七十四 雫、悪と対峙する

 いきなり、少し先の家から、火のついた柱が通りへ向けて倒れ込んでくる。くっ、と息を洩らして雫は馬のたてがみを引き、跳び上がらせた。馬は何の苦もなくしなやかに柱を越えて、そのまま走り続ける。

 かんかん、と半鐘の音だけは何時までも頻りに聞こえるが――。

 肝心の火消しが現れる気配は、一向になかった。


 まるで、厭な夢のようだった。

 けれど。


「お父ちゃあん、お母ちゃあん」

 何処からか、子供の泣き声が聞こえた。

 女の悲痛な叫び声が響き渡る。すぐ其処には、男が事切れた様子で倒れている。雫の胸が、きつく掴まれたように痛む。


 ほんの数日前この世界に降り立ち、颯太に連れ廻されてこの町を見て歩いた。雑然としながらも賑やかで、暖かで、憧れと懐かしさを感じずにはいられない町並み。簡素で剛胆で美麗な文物。生気と活気に充ち満ちた町人たち。そして、幼気いたいけな愛らしい子供たち。

 それらが今、失われつつある。


 たとえ全てが夢幻だとしても。

 ――この胸の痛みは、紛う事なき本物だ。

 雫はそう思った。


 ごうごう、ぱちぱちと周囲の全てが燃え上がり暗い煙を立ち上らせる中、家の陰からぬっ、と巨大な何物かが姿を現した。

 醜悪な態をした、見越入道であった。

 驚いた馬が後足立ちになり、雫は危うく振り落とされそうになる。

「どう、どう!」

 馬を懸命に宥めながら、雫はその背の上で刀を抜く。揺らめく火の光を反射して、叢雲は目映く輝いた。入道は雫に気づくや、胡乱で邪悪な笑いを口元に浮かべ、諸手を上げて襲いかかってくる。


 雫は深く息を吐き、心を落着かせた。

 逃げも避けもせず、雫は馬を巧みに操り正面から突っ込む。

 そうして――真っ直ぐに刀を振り下ろした。

「ぐぉおぅ」

 首から胸にかけて袈裟懸けさがけに斬られた入道は、重い唸り声を上げ、地響きを立てて倒れた。一滴も血は出なかった。そしてそのまま見ていると、不可思議なことにゆらりと煙のようなものを上げ、入道のからだは消えてしまった。後には、何一つ残らなかった。


 何が起きたか判らず雫はしばらくその跡を見つめていたが、そうしてばかりもいられない。空を見上げると、すぐに馬を駆って、火車の後を再び追い始めた。


 ――あの煙のようなものが、邪鬼の魅だろうか。


 雫は思う。ということは、やはり雑魚の類をいくら倒したところで意味はないのであろう。悪しき魅はその場に消え失せるのか、あのまま他所へ移るのか。判らないが、兎に角さしたる手応えはなかった。

 しかしいずれにせよ、叢雲が妖怪退治に存分に効くと云うことが判っただけでも、よしとするべきなのであろう。

 抜いたままの刀を右手に握ったまま、雫は馬を急がせる。

 上空の火車の速力が上がった気がして、僅かに焦った。

 すると。


「――覚悟」


 不意に低い声がしたかと思うと――。

 右脇の角から馬に乗って、鬼面武者が飛び出してきた。

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