クズ野郎異世界紀行

伊野 乙通

ep.1 恩寵のフロストドール

#0 プロローグ

『何を望む?』


 とある男の目の前に現れたのは、そんな言葉だった。声として聞こえたのか、文字として目の前に現れたのか、定かではないがとにかくそれはある。


『何を望む?』


 何を望むって、なんでも願いを叶えてくれるとでもいうのか。そもそも今何時でここはどこで、自分はどんな状態なんだ。


 男は疑問を口にだそうとしたが、声は出ないうえに自分の姿も見ることも叶わない。なにもかもわからない。


『何を望む?』


 望みを問われて男は考える。


 なんだろう、自分に何か叶えたい望みなんてあっただろうか。


 金、権力、名誉、女。普段から多くの人間が抱えるであろう欲望を思い浮かべたが、どれも男には釈然としなかった。

 あれこれ連想したがどうにもしっくりこないため、発想を切り替えることとした。

 なにかを得るのではなく取り戻すというのはどうだろうか。人生で失敗したことをやり直すなどどうだろう。


 人生のやり直しと考えて、まず男が思いついたのは大学受験。

 大きな失敗だった。言われるがままにひたすら勉強に打ち込んで、結局駄目で、何度も浪人して、弟だけ合格して、両親から見放されて。


 嫌な思い出が、男の思考を掻き乱す。


 ここから人生をやり直せばうまくいくだろうか。だがやり直して合格したとして、どうなるというのか。両親は喜ぶかもしれないが、それだけだ。


 両親という言葉を発端に、男の心に憎悪が広がる。


 そうだ、あんなやつらを喜ばせるために努力するなんてもう御免だ。自分自身の意思で志望校を決めたわけじゃない。ただただ強要され続けただけだ。ここから人生やり直したってしょうがない。


 男はそう決めつけ、思考を次へと切り替える。

 次に考えついたのは勤め先を解雇されたことだった。これもまた、男にとっては最悪の出来事だった。まったく無関係の不祥事の責任を押し付けられ、職場を懲戒解雇されてしまったのだ。


 畜生、最悪だったなあれは。まったく身に覚えのないことだったのに、あれよあれよと証言やら証拠が積み重なって、退職金なしで追い出された。


 当時のことを思い返して、男は怒りが込み上げてくるのを感じた。


 あそこでうまく立ち回れるようにやり直せば、懲戒解雇は免れることはできるかもしれない。だが、俺のことを嵌めた連中がいるところでまた働くのか。自分の言葉を誰一人として信じてくれない職場にまた行くのか。そんなのはこちらから願い下げだ。


 結局、この案も切り捨てられた。

 他にもいろいろ考えてはみたものの、憂鬱な気分になるだけに終わる。

 今までの人生全部をなくして、すべてをやり直そうかとも考えるが、それで新たな人生がうまくいくとも男には思えなかった。

 幸福な人生に必要なものとはいったいなんだろうか。


『何を望む?』


 再び願いを催促され、男の心に焦りが募る。


 何を望むんだ、俺は。金が欲しい、いい女を抱きたい、あそこでああすればよかった、こうするべきだった。そんなことばかり考えてきたくせに、いざとなると自分の望みかわからない。


 なにかないものかと、今度はとにかくポジティブな言葉を連想していく。夢、希望、自由。どれもしっくりこない。勇気、平和、勝利、友情、愛。

 愛という言葉を思い浮かべた男は、その言葉に心を惹かれた気がした。


 愛か、この世に生まれてから二十数年、愛なんてものが自分の人生にあっただろうか。自分を愛してくれる存在。自分が心から愛を注げる存在。そんなものがあれば、どんなに鬱屈とした人生であっても、少しは幸福になるのではなかろうか。そうだ、愛こそが自分の望みだ。


 男はそう確信する。


『何を望む?』


 声は出ないし、願いを問いかける存在はどこにいるのかようとして知れない。だが男は心の赴くままに願いを伝えた。


 愛だ、愛を寄越せ。愛のある、新しい人生を歩んで俺は幸福を手に入れる。


 その願いは曖昧で、まったく具体性に欠けていた。だが……。


『それが望みならば……』


 意識が、世界が暗転した。

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