#1 目覚め
男は気がつけば、なにかにもたれかかってへたりこんでいた。
「ここは……」
不意に口からでた言葉に自身で驚き、息を呑む。つい先程までは声が出せなかったと記憶していたからだ。だがその記憶ももはや曖昧で、直前までの自身がなにをしていたのか、まるで釈然としない。
脱力していた体に力を入れて立ち上がり、自身の状態を確認する。ジャージの部屋着にスニーカーを履いている。近所のコンビニにでも出かけるような格好だ。
自身の格好の次に確認したのは周囲の状況だ。辺りを見渡せばここは見知らぬ石造りの部屋のようだった。天井は崩れて青空が見え、部屋の奥には台座の上に崩れかけた像がある。朽ち果てた教会を思わせるような場所だが、当然こんな場所の見覚えはない。
そして、このわけのわからない場所にさらにわけのわからない物体が存在している。先程までもたれかかっていた物体。男の背丈ほどもある真っ黒な球体が床にめり込むようにして鎮座している。
「なんなんだよ、いったい」
わけのわからぬ状況に男がぼやいた。
自分はいったいどうしたというのだろうか。誘拐か。テレビのドッキリか。酔っ払って自分でここに来たのだろうか。
さまざまな可能性を思い浮かべつつ、自身の記憶を辿ろうとしたが、直前までなにをしていたのか、まるで思い出せない。そうして、しばらく思案に暮れていた男だが、やがて思考を打ち切る。
自分で動いて状況を把握しなければどうにもならない。そう判断したからだ。
「まあ、まず調べるとしたらこれだな」
不安を振り払うため、意識的に声を出しながらやるべきことを確認した。眼前の謎の物体。この黒い球体は、この廃虚の中で明らかに異質な存在だった。
なにかないかと観察していると、ちょうど目線のあたりに文字が刻まれているのが発見できた。見たこともない文字で、当然男には読めるわけもない。
「……あなたの望み」
だが、読めるはずのない文字はなぜか読めた。ごく自然に。漢字でもアルファベットでもない、男にとって未知の言語であるにもかかわらずだ。
どういうことだ、これは。
この不可解な事象を受けて、再び思案に暮れているさなか、ガラスにヒビが入ったような音が部屋に響いた。
音のした方を見れば、黒い球体の上方に亀裂が入っている。男が呆けている間にも、パキパキと音を立てながら亀裂は広がっていく。亀裂の合間からは白い光が漏れ出ていて、尋常な様子ではない。
爆発でもするのか。そんな考えが頭をよぎり、とっさに身を伏せる。
次の瞬間、窓ガラスが何枚もまとめて割れるような音が響き、部屋いっぱいに光が広がる。キツく目を閉じ、体を地面に伏せながら内心で悪態を吐く。
なんで自分がこんな目にッ!
恐怖で身を震わせることしばらく。
「……いつまでそこで蹲っているんですか。しょうがない人ですね」
女の声がして、ハッと顔を上げると白い人影がその目に映った。
肩まである透きとおるような白髪。身に纏う白一色のゴシックドレス。血が通っているのか怪しいような白磁の肌。なにもかも白い少女が、なにもかも白いお陰で一層目立つ金色の瞳で男を見下ろしていた。
「私は貴方の願いを叶えるために生まれた存在。貴方の願いを果たすため、この身を奉じます」
「は? 願い?」
思わず間抜けな声をだして聞き返してしまう。
「……大いなる意思に、なにかを願ったのではないですか? 貴方の願いの一助となるのが、私の存在意義……のはずですが」
最後の少々自信なさげな言葉に不安を覚えつつも、どうやらこの少女は自分に協力的な存在であるらしい。とにもかくにも現状を把握しなければならない。
「願いというほど大袈裟じゃないが、いろいろと聞きたいことがある」
「なんなりと」
「ここはどこだ? 君は何者だ? あと今は何月何日何時何分だ?」
◇
「――つまり、ここは大陸の大体真ん中あたりにある、アマルテアとかいう地方のトム……なんちゃら王国とかいう国の田舎の廃村で、カミサマとやらが俺の願いを叶えるために派遣したのが君で、ええと日付が……」
「典礼暦一四五三年五月二十九日。現在時刻は九時二十三分です。それからここはトムリア・ゾロア連合王国です」
「はあ、そうですか」
男は唐突に現れた白い少女に矢継ぎ早に様々な質問をしたが、その回答は彼にとってまったくもって意味不明なものであった。
現在地、現在時刻、そして目の前の少女が何者であるか。それらの質問に少女は淀みなく答えたが、その回答はどれも理解の範疇を超えており、生返事で返すことしかできない。
聞いたこともない国家に年号。時刻だけは馴染みのあるものだったが、それだけだ。
「それでその、君の正体が……人形だって?」
そして、最も不可解なのが少女の正体だった。
少女が特に抵抗しないのをいいことに、ぺたぺたと白い少女の頬を触ると、冷たく硬い感触がする。ぐいっと顎を持ち上げると、首元の球体関節が見えた。
「マジかよ、本当に人形なのか……」
「すでに三回同じ質問をされて同じ回答を三回していますが、私はミスリル合金セラミック複合材製の自動人形です」
「中に人とか入ってない? それか機械とかじゃないの?」
質問には答えず、自分の頭を両手で掴みそのまま持ち上げる少女。カチャリと首の球体関節が外れて、頭部が持ち上がった。
「このとおり、中に人が入ってるわけではありません。キカイがどうとかはわかりませんが、私はボディとその周辺に魔力の糸を張り巡らせ、糸の伸縮操作によって駆動しています」
「はあ、そうですか」
わけがわからず、ぼんやりとした返事した。
本当にわけがわからない。これは現実なのか。ここは日本ではないのか。日本でないどころか漫画の世界にでも迷い込んだのか。自分の家に帰りたい。魔力の糸とはなんなんだ。この人形は首と頭が離れてどうやって声を出しているんだ。
現状の不安や疑問が、男の脳裏に浮かんでは消えていく。
「幻想でも虚構でもありません、現実です。ニホンとやらは知りませんが、この大陸に同名の国家、都市、地名はありませんね。貴方の家も存じません。貴方には見えていないようですが、魔力の糸は私の魔力を糸状に形質変化させたものです。声もこの糸の振動で発しています」
男の疑問が口から出ていたらしく、白い人形はそれらに丁寧に返答した。
「どうすればいいんだ、これから……」
「知りませんよ、そんなの。とにかく、貴方には私を含め願いを成就するために、必要なものが与えられているはずです」
人形が辛辣に言う。
「願いはすでに叶えられているんじゃないのか?」
「貴方が何を願ったのかは私にはわかりません。ですが、私は貴方の願いの成就のための存在です。そういう実感があるのです。そうであるなら、願いはこれから叶えられるものであるはずです。貴方が願いを忘れたのか、あるいは貴方の深層意識によるもので自覚がないのか。後者であれば、まずは貴方自身の願いを探さなければなりません」
「つまり、これから自分の願いを見つけるなり思い出すなりして、それを叶えろと」
うんざりしたように男は言った。いきなり理解不能な状況に放り込まれたうえに、人形のきつい物言いは男を苛立たせた。
この人形は男の願いの産物ではあるらしい。だが、男は何かを願った覚えはなかったし、願いを叶えるカミサマとやらに会った記憶もなかった。
「……まあいい。要は自分の欲求を満たせばいいんだろう? さしあたり、俺の願いはうまい飯を食って、寝心地のいいベッドでぐっすり眠ることだ。人間の文化圏にはいるようだし、生活基盤を整えよう」
「ようやく建設的な意見がでましたね。先程からのんびりした問答ばかりで、うんざりしていたところです」
「……お前、辛辣過ぎない? こんなわけのわからない状況にいきなり放り込まれたんだからさあ、もっと優しくしてくれてもよくないか?」
「いつまでもこんな場所でゆっくりしてられないんですよ。今から出立すれば最寄りの集落まで、日が沈む前に移動できます」
なるほど、それは確かに夜になる前に人里へ移動した方がいいだろう。
男とて、こんな廃村で夜を明かしたくはない。
「ですがその前に、聞かなければならないことがあります」
人形の言葉ももっともだと考え、早くここから移動しなければと、その気になった途端に、人形は出鼻を挫くような発言をした。
「ええ……。急ぐんじゃないのかよ」
「別に時間は取りませんよ。貴方の名前を教えてください」
「え? 今更聞くのかよ。ていうか知らないのか?」
男の願いを叶えるため、男に仕えるために派遣されたらしいのに、この人形は仕えるべき主人の名前も知らないと言う。
「私という存在はつい先ほど誕生したばかりです。大陸地図や各地域の一般常識などの情報はプリセットされていますが、貴方についてはなにも知りません」
そういうものかと人形の話を聞きながら、男もまたこの人形の名前を知らないことに思い至った。
現状、この人形の存在は自身の命綱だ。どういうわけだか、超常的な現象により見知らぬ土地に放り出されてしまい、人里ともずいぶん離れているらしい。この状況で一人だけでは、よほどの幸運に恵まれなければ野垂れ死ぬだろう。
この人形と相互理解を深めるのは重要だろうし、友好的に接した方がよいだろうことは簡単に想像できた。
「は? だったらテメーが先に名乗れ」
だが男の口から出たのは、友好的とは言い難いセリフだった。
これまでのやり取りで人形は従順ではあったが、その口調は冷淡なもので、男はこの人形に対しての反感が募っていた。
ふん。俺の願いを叶える存在というのなら、立場は俺が上でこいつが下だ。これを機に上下関係というものを叩き込んでくれる。
男は内心で気炎をあげる。
「……」
男の発言に対し、人形は沈黙で答えた。
……なぜ答えない? もしやこれだけで怒ったのか? もしそうだとすれば、まずい。
人形の沈黙を怒りによるものだと捉えた男の心に焦りが生じる。万が一この人形に見捨てられるようなことになれば、命の危機だ。
先程までの、人形相手に上下関係を叩き込むという決意は急速に萎んでしまった。
「いや、あの、この状況がね、悪いんですよ。だってこんなファンタジーは想定外でしょ。つい気が動転して言葉遣いが悪くなったというか。だいたい、あなたの言葉遣いもあまり上品でないというか、思いやりにかけているというか、つまりですねーー」
俺は悪くない。必死の弁明、その最後の言葉を言う前に、人形が口を開いた。
「私には名前がないようです」
「は? 名前がない?」
「私はつい先ほど生まれたばかりと言ったでしょう? 大いなる意思は、私に使命とそれを果たすに足る能力を授けましたが、私の個体名は特に決められていないようです」
なるほど、この人形には名前がないらしい。名乗れと言われて名乗れないのも納得だ。
人形の怒りを買っていたわけではないらしいと、男は安堵した。
「ふむ、ならばこの俺が貴様のゴッドファーザーとなってやろう」
「名付け親ですか」
「そうだ。光栄に思え」
先程の情けない弁明をごまかすため、名付け親を買って出たが、特にいいアイデアは浮かばない。
まあ白いし、シロとかホワイトとかでいいだろう。人間じゃないし、ペットみたいなものだ。
「シロとホワイト。どっちがいい?」
「……どっちもなにも、白と白ではまったく同じでは?」
やはり、白いからシロやホワイトでは安直すぎたか。
いったんはそう考えた男だが、人形の発言にどこか違和感を覚える。ニュアンス的に安直なネーミングを非難している雰囲気ではなかった。
シロとホワイトがまったく同じ。日本語と英語。
言語について意識した途端に、今までの人形との会話でのおかしな点を男は自覚した。
今まで自分たちは何語で会話していたのだろうか。日本語ではない。そういえば先程のまったく見知らぬ文字をなぜか読むことができた。
違和感の正体を意識した途端に、視界がぐにゃりと歪む。頭の中で日本語が分裂する。知らない言語が、頭の中を侵略して日本語と結合していく。
「うげええぇえぇ」
胃の中身が吐き出された。食べたことは記憶にないが、朝食は白米と味噌汁かなにかだったらしい。現実逃避気味にそんなことを考えている間も、頭の中で文字が暴れ狂う。
ああ、そうか。『シロ』は白。『ヒト』は人なのか。
「はあ、はあ……」
「言語酔いですね。……落ち着きましたか?」
「……落ち着いてきたが、言語酔いってなんだよ?」
「まったく別の言語体系の方が、教会の奇跡によって神聖言語を取得する際には、悪心・嘔吐といった症状がでることがあるそうですよ。今まで神聖言語を無自覚に使っていたようですが、これで母国語との使い分けができるのでは?」
「白、『シロ』、『ホワイト』……確かにな」
神聖なる恩寵の言葉、聖刻文字、神聖言語。この大陸全土で使える共通語。ここで目覚めてから無意識に使用していた言語。
なるほど、今なら完全に理解できる。これもカミサマの贈り物か。
「先程の名前の候補、『シロ』と『ホワイト』ですか。両方とも白色を指す言葉のようですね。で、どちらなのです。最後まで決めてください」
「じゃ、『ホワイト』で」
さすがに『シロ』では犬や猫の名前のように感じる。
男はそう考え、人形の名前をホワイトとすることに決めた。
「ん、それでは私はホワイトです。それで、貴方の名前は?」
「キミヒコだ。よろしくホワイト」
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