#6 ファーザーコンプレックス
パリッとした服装の女性、会長の秘書らしき人物に案内され、キミヒコは館内を歩いていた。そこかしこに立派な壺やら豪奢な絵画やらが飾られており、それらはこの商会の力をキミヒコに感じさせた。
なかなか、儲かっているらしいな……。息子はボンクラだったが、父親は舐めてかからない方がいいだろうな。
キミヒコの見る限り、ここの会長は息子の教育には失敗している。だが、だからといって会長自身が暗愚であるとは限らない。世間的な評判と家庭内での評判は一致しない。
親として失格でも、社会人としての仕事ぶりは抜群。そんな人間もいる。
身近な例を思いついて、心中に苦いものが広がるのをキミヒコは感じた。
胸のうちに湧いた、嫌な心情を振り払うように息をついて、キミヒコは歩みを進める。
「キミヒコ様。どうぞこちらでございます」
無言で歩き続けることしばらく。ようやく目当ての部屋へ到着したようだ。案内の女性が扉を開けて入室を促す。
促されるまま部屋に足を踏み入れると、広々とした応接室がキミヒコの目に映った。
部屋に揃えられている調度品はひと目でわかるくらい高級なもので、案内されて座ったソファの座り心地にキミヒコは感嘆した。
「キミヒコ様。当商会の会長、マダラスが参りますまで、今しばらくこちらの部屋でお待ちください」
「どうも案内ありがとうございます。……マダラス会長はお忙しいようですね」
「スケジュールが押しておりまして……。お待たせして申し訳ありません」
「いえ。お忙しい中、お時間を作っていただいて感謝していますよ」
それだけキミヒコと会話をすると、案内の女性は深々と頭を下げて退室した。
足音が遠ざかっていくのを確認してから、耳に指を当てる。
『周囲に人の気配はありません』
合図を受けて、ホワイトによる糸電話での通信がキミヒコの耳に響いた。
「ん、そうか。手の調子はどうだ?」
『問題ありませんよ。この館の人間くらいなら、腕一本で十分相手ができます。……カバンから出しておきますか?』
ホワイトの声とともに、床に置かれたカバンが揺れる。
キミヒコの持ってきたカバンの中には、ホワイトの右腕が仕込まれていた。腕一本とはいえ、ホワイトのそれは凶悪な自動兵器そのものだ。有事の際の防衛手段としては十分にすぎる。
ちなみに、外の本体には木彫りの模造品の右腕が装着されている。袖と手袋に覆われているため、バレることはないだろう。
「いや、そのまま待機していろ。……何度も言ったが、どれだけ不穏な空気になっても、こっちから仕掛けるんじゃないぞ。まずは防御だ。攻撃するのは俺の指示があってからだ」
『先制攻撃こそが最も効率的な防御手段ですよ。貴方、それだけ脆弱な体なのに、そんなに余裕ぶってて大丈夫なんですか?』
「君さあ……どーして俺がこんなところまで来てるのか、わかってる? 協調性とか寛容な心とか、そういう精神をそろそろ身に付けてくれない?」
『そういう、わけのわからないことを言われましても……貴方、来ましたよ』
変わらず過激なことばかり言うホワイトを嗜めていると、待ち人の来訪を告げられる。
「……結構待たされるかと思ってたが、存外早いな。面子は?」
『先程の女と、恰幅のいい男の二人組です』
「護衛とかは? 戦えそうなのはいないか? もしくはその二人に戦闘力があるとかは?」
恰幅のいい男とやらが、目当ての人物であるマダラス会長だろう。
二人だけで来るあたり、キミヒコを暴力でどうこうしようというわけではなさそうだが、念の為に確認を入れる。
『護衛はいませんし、二人とも戦えそうにはないですね。私の右腕パーツだけでまとめて即殺可能です』
「やめろっつってんだろ。絶対に攻撃するなよ、絶対だからな……!」
ホワイトに釘を刺していると、ノックの音が扉から響いた。
「キミヒコ様、お待たせいたしました。面会のお約束のマダラスが参りました」
先の案内の女性の声だ。キミヒコはそれを受けて立ち上がり、「どうぞ」と返事をする。
扉が開かれ、恰幅のいい中年の男が入室する。キミヒコがこの場に来た目的の人物、マダラス会長だ。その手にはどういうわけか、包帯が巻かれていた。
怪我でもしたのだろうかとキミヒコは訝しんだが、とりあえずは気にせず挨拶に移ることにした。
「キミヒコと申します。本日はお忙しい中、こうしてお会いいただき感謝します」
深々と頭を下げて、キミヒコが言った。
「当商会の会長を務めているマダラスだ。そうかしこまることはないよ、キミヒコ君。本来なら、こちらからお会いしなければならないと思っていたところなのだ。わざわざご足労いただいて、こちらが恐縮しているくらいだよ」
マダラスは朗らかにそう言うが、キミヒコは真に受けたりはしない。相手は法的制限がないにしろ、この都市の宿泊産業を全て牛耳っているような男である。腹芸の一つや二つ、簡単にしてみせるだろう。
差し当たり、いきなりに本題に入ったりはせずに適当な雑談をする。
このところ寒くなってきたとか直近のニュースについてとか、そんな当たり障りのない話を応接テーブルを挟んで二人は交わした。
秘書と思われる女性が入れてくれた茶の湯気が、二人の間で揺れている。
「君、葉巻は嗜むかね?」
マダラスから不意に尋ねられる。キミヒコが「人並みには」と返すと、それを受けてマダラスは控えていた秘書に目配せをした。
「キミヒコ様、どうぞ」
「どうも、いただきます」
差し出された葉巻を咥えると、秘書がマッチで火をつけてくれる。いつもホワイトにやらせていることだが、この秘書にやってもらうと自分が社長かなにかになったような感じがして、悪い気はしなかった。
おお、これはいい葉巻だな。一本いくらするんだ、これ……。
高級葉巻を一服したところで、そろそろだろうとキミヒコは用件を切り出すことにした。
「……そろそろ本題に移らせていただいても?」
「ああ。もちろん構わないよ」
「……息子さんの腕の件、申し訳ありませんでした。私の監督不行き届きの致すところです」
いかにも申し訳ないといった雰囲気を出すようにはしているが、その実、キミヒコは全然申し訳ないとは思っていない。そういうポーズをして見せているだけだ。
表情からは窺い知れないが、それは相手も重々承知だろうとキミヒコは思っていた。
マダラスは謝罪の言葉を受けて口を開こうとしたが、キミヒコがそれを手で制する。
「私がこうして言葉を重ねたところで、意味はありません。言葉で飾ろうとも、それは実態のないこと。私の誠意は、こちらに記載されている数字でご確認ください」
言って、脇に置かれたカバンに手を突っ込む。カバンの中でなにかが蠢き、キミヒコに一枚の書類を手渡した。
この館に入る際には、バラバラに分解されカバンの二重底に隠されていたホワイトの右腕は、今は合体して腕の形となっていた。命令されれば、カバンから飛び出してすぐさま目の前の人物の命を奪うだろう。
実際にはそんな命令は下さないにしろ、キミヒコはそれを心強く思った。
「……どうぞ、こちらの書類になります」
取り出した書類を、相手に見えるようにテーブルへ広げた。マダラスは無言でそれを手に取り、一読する。その様子をキミヒコは静かに観察した。
先の雑談の際にもそうだったが、キミヒコにはこの男の腹の内がまったく見えない。
キミヒコが用意した書類は、この都市で贔屓にしている銀行の資金移動の手続き書だ。見舞金を名目として、かなりの額が記載されている。あらかたの手続きは済んでおり、あとはマダラスが資金の移動先の口座と自身のサインを記載するだけになっていた。
相手が相手だけに、キミヒコは涙を飲んで払いたくもない大金を用意していた。だがマダラスという男は、その数字を見ているはずなのにキミヒコが読み取れるような反応は示さない。
……このタヌキ、なにを考えているのかさっぱりわからんな。ちょっとはわかるような反応を見せろよ……。それなりの額を用意したはずだが、多かったか少なかったか推察できん……。
焦れる心を抑えつけながら、キミヒコはマダラスの言葉を待つ。
「すまないが、これは受け取れんよ。キミヒコ君」
しばらくして、マダラスの口から出たのはそんな言葉だった。
「……お気持ちはわかりますが、私にはこれが精一杯です。ただ、お時間をいただければもう少し用意できなくは――」
「すまない、誤解させたようだね。足りないとかそういう意味ではないのだ」
ではどういう意味なのか。キミヒコが疑問に思っていると、マダラスはソファから立ち上がった。
「まず初めに、私の方からもあれの父親として謝罪をさせてくれ。キミヒコ君、この度は倅が大変な無礼をした。本当に申し訳ない」
頭を下げてそう謝罪するマダラスに、キミヒコは呆気にとられる。
「まさか倅があんな馬鹿をやるとは思わなかった。魔獣使いの魔獣に懸想して、挙句にその魔獣に腕を折られるとはね。まったく、見苦しいことをした。あれで経営管理は優秀だったのだが……基本中の基本である接客については下の下だ。親の贔屓目だったようで、お恥ずかしい限りだよ」
あっさりとアポイントが取れたことから、会長は実はそんなに怒ってはいないのではないか。そういう推察はできてはいたものの、こうして深々と頭を下げられてキミヒコは面食らった。
本心からの謝罪かは定かではない。支配人に任命した息子が客に無礼を働いたとはいえ、大怪我を負わされたのだ。だが、マダラスという男が感情的にはなっていないのは確かのようだった。
キミヒコの目的は出禁の解除であるから、この展開は望ましいものとも思える。だが、単純に喜ぶにしては、疑念となる点がいくつかあった。
先の事件でそこまで怒っていないのなら、なぜ自分たちを出禁にしたのか。
そして先程の謝罪の言葉も気にかかった。この男は父親として謝罪すると言った。会長としてではない。
「……いえ、どう考えても私たちもやりすぎましたから。私としては、マダラス会長とのわだかまりさえ解消されるのなら……」
「すまないが、それはできない」
会長とのわだかまりの解消。要するに出禁を解除してくれるのならといった話をキミヒコが切り出そうとすると、即座に拒否される。
「あれの父親として、君には申し訳なく思っている。だが、出入り禁止はこの商会の会長としての判断だ。私情を挟むつもりはない」
申し訳なさそうな雰囲気を出しつつも、毅然とした態度でマダラスが言う。
会長としての判断。その言葉を聞いて、キミヒコの背に嫌な汗が伝う。
「……君、こうした事件を起こしたのは、今回だけの話ではないのだろう?」
無言でいるキミヒコに、マダラスは言葉を続けた。
「君も大切なお客様の一人ではある。だが、全てのお客様と従業員の安全を保証する義務が、私にはある。君たちの出入りを許可することはできない」
キミヒコたちの出禁は、息子に怪我を負わせた腹いせではなく、客と従業員の安全を考慮してのものだったらしい。
ホワイトにとっては傷害事件など日常茶飯事である。それどころか殺人事件までやってしまった前科もある。マダラスがどこまで把握しているかは不明だが、今回の事件でホワイトの危険性についての確証を与えてしまったようだ。
「これまでの代金は全額返金するようにする。他の都市への移動費も負担しよう。それまでのことであれば、私の家に客人として招いてもいい。それでどうか納得してくれまいか?」
費用を負担するからこの都市から移動してはどうかとマダラスが提案するが、キミヒコはそれを飲むことはできない。ギルドとの契約により、メドーザ市から離れることはできないからだ。
ギルド相手に結んだ契約を一方的に破棄したとなれば、今後の活動はかなり苦しくなるだろう。ギルド同士の横の繋がりで、この手の信用問題はあっという間に広がってしまう。
今までギルド相手に何度も喧嘩をしてきたキミヒコだったが、その一線は越えないようにしていた。
……これはもう、金では解決できそうにないな。宿が利用できないとくれば、どうすればいい……?
宿の利用を諦めた場合について、キミヒコは考えを巡らす。
野宿は不可能だ。雪こそまだ積もっていないものの、季節は冬である。この気温では凍死しかねない。
知人を頼るのはどうか。キミヒコがこの都市で知人と呼べるのは、同じ魔獣使いのシモンくらいだ。だが、彼もまたキミヒコと同じく宿暮らしだったはずである。頼ることはできない。それ以前に頼っても断られるだろう。キミヒコが同じ立場でもそうする。それくらいの関係だった。
あれこれと考えてはみるが、妙案は浮かばない。ギルドを頼るという選択肢もないではないが、すでにさんざん揉めたあとである。足元を見られるのは想像に難くない。
「……もしや、この都市から離れられない理由でもあるのかね?」
無言で考え込んでいたキミヒコに、マダラスが問いかける。
マダラスの指摘はキミヒコにとって図星そのものである。だが、それを素直に認めることは、相手に弱みを握られることに他ならない。
キミヒコは返事をせずに、黙ったままマダラスを見据える。
「ギルド関係かい?」
「……あなたは、どこまで、なにを知っているんですか?」
マダラスの推察の鋭さに、観念したようにキミヒコが言った。
ギルドとハンターの契約内容は基本的に外部に漏れることはない。ギルドに対して喧嘩腰のキミヒコも、そこは信用していた。
キミヒコがハンターとして活動しているのは当然知られている。そこからカマをかけられただけかもしれないが、もう隠しても仕方がないようにキミヒコには思えた。
「それほど、確証を持って把握していることは多くはないよ。ただ、持っている情報からいろいろと推察することはできる」
「……敵いませんね。実は――」
キミヒコは話した。守秘義務があるため、報酬や期限については話さなかったが、メドーザ市からは離れられないことは隠さず伝えた。
「なるほど、読めたよ」
キミヒコの話を聞き終えたマダラスが言う。
この話でいったいなにを理解したというのか。キミヒコが疑問に思っていると、マダラスが言葉を続ける。
「君の情報を私に教えたのは、誰だと思う?」
マダラスに、この商会に、自身の情報を伝えたものがいる。
彼が独自に情報を集めたわけではないことに、キミヒコは戦慄した。この都市で、キミヒコの情報を有している存在とくれば、思い当たるのは一つしかない。
「ま、まさか……ハンターギルドが……?」
「そういうことだ。聞きもしないのに、私にわざわざ教えにきたんだよ。君の悪評を倅に吹き込んだのも、連中だ」
口をついて出た疑念をマダラスが肯定したことで、キミヒコは絶句した。
冗談ではない話である。ギルドには所属するハンターを守るため、契約や仕事についての情報を秘匿する義務があるのではなかったか。
そうも思ったが、今回漏洩した情報は、おそらくギルドと関係のない場所での事件についてだろうことに気が付く。ギルドと無関係の部分であれば、守秘義務は生じない。
とはいえ、普通であればギルドはハンターにとって不利になることをしないものであるのだが。
「ギルドは君に泣きついてほしいのさ。契約金はもう支払ったのだろうが、報酬金の額は理由によってはあとから減額できる。君に住居を都合する代わりに、報酬金を天引きするのが狙いだろう。……ここまでするとは、よほど吹っ掛けたらしいね、君」
続くマダラスの推測に、キミヒコは納得すると同時に怒りの感情が燃え上がった。
あ、あ、あ、あいつら……! 汚すぎだろ畜生が! 報酬金の比率を変えたのはこれが理由かよ。許せねぇ……!
ドス黒い感情が渦巻くと同時に、キミヒコの中の冷静な部分がこの話を鵜呑みにしていいのかと警鐘を鳴らしてもいた。なぜギルドから情報をとっておきながら、それをあっさり自分に話すのか。そういう疑念だ。
キミヒコの中で、ギルドは限りなく黒に近くなったが、マダラスのことを信用したわけではない。
キミヒコの目が猜疑に歪んで、細められた。
「君の疑いはもっともだが、私に連中への義理立てをする理由はないよ」
キミヒコの視線の意図をすぐさま察して、マダラスが言う。
「私の方からギルドに対して、君の情報開示を迫ったなら当然こんなことは喋らない。だが今回は連中の都合で、私を動かすために話を持ってきたんだ。いわば、ダシに使われたわけだからね」
「……なるほど」
現状を踏まえて、いったんはマダラスの言うことを正しいと仮定して動くことを、キミヒコは決めた。無論、この話が終わったあとに、ホワイトの盗聴能力を駆使して裏取りをする腹づもりだ。
「……君、信心深い方かね?」
ギルドと商会相手に、どうスパイしてやろうかとキミヒコが考えていると、不意にマダラスにそんなことを尋ねられる。
「……いえ、熱心とは言えませんね」
「言語教会となにか事を構えたことは?」
「教会とはなにもトラブルはありません。この都市でも、他所でもそうです」
なぜ教会の話が出てくるのか。キミヒコがこの話題の意図が見えずにいると、そういうことならとマダラスが話を続ける。
「ここの言語教会が、カリストへ向かう巡礼者たちをサポートしているのは知っているかな? 巡礼者たちは山越えの前に教会の施設で宿泊するそうだ」
ここにきて、マダラスの提案をキミヒコは察した。
「泊めてくれますかね? 私は山越えをする気はないですが」
「世の中、どんな綺麗事を並べたところで俗世との縁は切れんよ。地獄の沙汰も金次第とはよく言ったものだ」
どうやら生臭坊主というものは、異世界にすら存在するらしい。過ごしやすい世の中で結構なことだと、キミヒコは笑った。
「ふふ……なるほど、そういうものですか。まあ、清貧を是としたところで、彼らも人間ですからね。……いくら必要です?」
「司教の一人に伝手がある。額は、そうだな――」
マダラスが示した金額は、今回の件でキミヒコが用意した額の半分程度。それで半年程度は宿泊できるらしい。
半年もあれば十分すぎる。長すぎるくらいだが、大事をとってそれくらいの猶予を持たせるのもいいだろう。
差し当たりはこの提案に乗って、マダラスの語った内容の裏取りをしつつ、ギルドへの報復をどうしてやろうか考える。キミヒコはそう決めた。
「……手間をおかけして申し訳ないのですが、よろしくお願いしていいでしょうか? せっかく用意した証書ですので、これはそのままお使いください」
「それは受け取れない、と言ったはずだが? 私の方で工面するから、余計な気は回さなくていい」
「いろいろ、有意義なお話を聞けました。私たちが先に手を出したのは事実ですし、息子さんの父親としての謝罪はもういただきましたから。この話はもうそれまでで、教会への交渉はまた別の話ですのでね。……差額は仲介料として取っておいてください」
もともと、この男に献上するために用意した金だったので、それを手放すことに躊躇はない。キミヒコとしては、目の前の油断ならない男に借りを作ることの方が嫌だった。
「……卒がないな、君は。倅にも、そうした部分を教えてやらねばな。……いや、すまない。私事を聞かせてしまったな」
自身の手に巻かれた包帯を見ながら、マダラスが言った。
それまでのビジネスライクな表情が崩れて、優しげな雰囲気を見せたマダラスに、キミヒコはなにも言えなかった。
◇
言語教会との交渉について話を煮詰め終わり、キミヒコは帰るべく秘書の女性のあとをついて歩いていた。
教会か……。今までみたいな高級宿じゃないから生活レベルは落ちるが、贅沢は言えないか。ギルドには頭を下げたくないし……。
そんなことを考えながら歩いていると、先導していた秘書の足が止まった。
「……キミヒコ様、少しよろしいでしょうか?」
「……なにか?」
「あちらを……」
秘書の女性が手で指し示す方を見ると、キミヒコがこの場に来ることになった直接の原因、例の宿の元支配人が立っていた。
父親の逆鱗に触れた彼は、支配人をクビになったうえ、この商会の系列外の宿、つまり他所の都市の宿へと丁稚奉公に出されることとなったらしい。
事の顛末を聞いたキミヒコはざまあみろと溜飲を下げており、彼に会うことがあれば追い討ちに嫌味のひとつも言ってやろうとすら思っていた。いたのだが……。
「キミヒコさん。……申し訳、ありませんでした……!」
そう言って頭を下げる彼の顔は、青アザだらけの悲惨な有様だった。腕に巻かれたギプスよりもよほど痛々しい。
そういえば、会長の手に、包帯が巻かれてたな。父親自ら制裁を加えたのか……。
誰に殴られたのかを察して、この男に対する怒りや恨みが急速に萎んでいくのをキミヒコは感じた。
「いや、いいよ……。腕のこと、悪かったな」
キミヒコはなんとも微妙な表情で、そんなことを言う。心のうちにあるのは、目の前の男のことではなく、自身の父親のことだった。
あいつは、俺のことを殴ったりはしなかった。だが……。
キミヒコの父親は、息子に手をあげることは決してなかった。だが、言葉と態度で我が子を傷つけることになんら躊躇はなく、最後には見放し、縁を切った。
対してこの親子はどうだろうか。失態を演じた我が子をボコボコに殴りつけ、容赦無く仕事を取り上げたうえ、下働きとして他所へと放り出す。しかし、決して見捨ててはいない。
マダラスが息子について発言した際に一瞬だけ見せた、あの優しい表情でキミヒコはそれを理解していた。
自身の境遇と彼らの関係を比較して、わけのわからぬ感情がキミヒコを支配した。なんだか妙に疲れてしまって、ため息のひとつもつきたい気分だった。
「……親父さん、大事にしてやれよ」
キミヒコの口から漏れたのはため息ではなく、そんな言葉だった。なぜこんなことを言ったのか、キミヒコ自身もわからない。
唖然とした様子の男と秘書を尻目に、キミヒコはホワイトの下へ帰るべく、歩き出した。
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