#2 風の中を歩く
ミルヒと別れたあと、今度は仕事に就くため、キミヒコはホワイトを連れて歩いていた。
航空隊の第一陣はすでに出撃し、今は第二陣が空の上で編隊を形成しつつある。
あの竜騎兵たちのあとが、帝国軍に雇われたキミヒコの出番の予定だった。とはいえ、スケジュールにはまだ余裕はある。ホワイトがどうするかは、第一陣が帰ってきて、その報告に応じて司令部が判断することとなっていた。
「ホワイト。お前から見て、ミルヒはどうだった?」
のんびりと歩きながら、キミヒコがホワイトに問う。
「どうとは?」
「魔力の質とか戦闘能力とか、以前と比較してどんな感じだ?」
「魔力はやや変質してましたね。戦闘能力は高くなっていると評価します」
ホワイトの言葉に、キミヒコは「そうか」と短く返事をする。
やや変質、か。あいつ、狂人とまではいかないようだが、要注意だな。
左目を覆った眼帯をいじりながら、そんなことを思う。
ミルヒはホワイトへの忌避感が減衰していた。人として大事な何かを喪失しつつあるということだ。
とはいえ、完全に失っているわけではない。取り繕ってはいたが、ホワイトのことは普通に嫌そうにはしていた。
だが、このままミルヒの魔力が変質してしまえばどうなるだろうか。
キミヒコは以前、ホワイトの魔力を感知しながら、それに対してなんとも思わない人間に会ったことがある。本性を隠して社会に溶け込んではいたが、倫理観というものが崩壊している人物だった。
「どうしましたか? 目が痛みますか?」
「いや……ミルヒも、あいつみたいになっちゃうのかなって考えてた」
「あいつ……?」
キミヒコが言う人物が誰なのか、ホワイトは理解していない。
この人形は、自身の手で殺した相手のことなど、なんの関心もないのだ。
「……この目、あの女に祟られたのかもな。まあ、あいつに持ってかれたのなら、それもいいだろうさ」
ホワイトに説明することもなく、キミヒコは気取ったようにそう言った。
「なにを格好つけてるんですか……。さっきの女にも名誉の負傷などと嘯いていましたが、売女から変な病気をもらったからでしょうに。とんだ名誉の負傷ですね」
呆れたようにホワイトが言う。
「うるせーな。それを言ってくれるな……」
「だから病気には気を付けてと、あれほど言ったのです。安淫売や立ちんぼなんかを買うから、こんなことになったんですよ」
「あーもう、悪かったって何度も言ったろうが。反省してるって」
ホワイトの諫言に、キミヒコはバツの悪い顔をする。
キミヒコの左目がこうなったのは、ホワイトの言うとおり、よくない病気を女遊びでもらってしまったからだった。
たまにはちょっとくらい安っぽい店も乙なもの。そんなことを考えてしまった過去の自分を殴りたくなるが、後の祭りである。
「この世界にも抗生物質があって助かった。ひと財産潰したがな……」
キミヒコはしみじみと呟いた。
もらった病気は細菌性だったらしく、この世界にも存在していた抗生物質がよく効いた。値は張ったが、あれがなければ片目だけでは済まなかっただろう。
「ちゃんとしたお店で遊べるくらい、私の稼ぎはありましたのに。あんな安い売女を買うから、こんなことになったんですよ。安物買いの銭失いとはこのことです。金銭どころか片目まで失うとは……」
耳の痛い言葉を続けるホワイトに、キミヒコはゲンナリとする。
どうにか話題を転換しようと、残った右目を泳がせ、話の種を探す。そんなキミヒコの目に、滑走路の順番待ちをしている竜騎兵の姿が映った。
飛竜はその背に帝国兵だけでなく、いくつもの黒い筒状のなにかを載せている。
「飛竜に積まれたあれが、帝国軍の新兵器か」
キミヒコの言ったとおり、飛竜に積まれている物体は帝国軍が開発した新兵器だった。
その正体は、上空から目標へ投下するための航空爆弾である。
「らしいですね。あれを積んでるおかげで重くなってしまって、滑走路がないと飛び立てないようです」
「帝国軍の新戦術……航空爆撃、か。地表の目標に対して一方的に攻撃するらしいが……」
「なにか、気になりますか?」
「なんだか、技術レベルがチグハグだと思ってな。銃火器はまるで発達してないのに、空爆とか。軍事技術だけの話じゃない。鉄道だの抗生物質だの……奇妙な世界だよ、本当にさ」
戦争で未だに、剣や弓が使われているところに、空爆である。
魔力という概念があったり、空を飛ぶ魔獣がいたりで、真世界における技術革新の歴史のとおりにはならないだろうことは、キミヒコにもわかってはいた。
事実、航空部隊は飛行機ではなく魔獣を用いるし、鉄道は蒸気機関ではなくマナバッテリーという魔石を用いたファンタジックな動力で動いている。
それに、言語教会という存在のこともある。
だから、この世界はそういうものなのだと納得はしているが、違和感は拭えない。
「はあ。真世界の常識からすると、そうなのでしょうが……。まあ、さっきの組織構造がどうとかの話と同じなのでは?」
どうでもよさげに、ホワイトが言う。
「それに、その抗生物質のおかげで命拾いしたのです。貴方にとってはよいことでしたよ」
「まあ、それはそうなんだが」
真世界で抗生物質が発見されたのは、二十世紀になってから。細菌の概念すらなさそうなこの世界で流通しているというのは、おかしな話だ。
言語教会が病に効くからと真世界の資料から作成したのか、あるいは魔術的な技術による発見なのか。
いずれにせよ、それで命を拾ったのだから、キミヒコにとってはありがたいことだった。
教会がやったと推察できることで受けた恩恵は、他にもあった。長さの単位がメートル法で統一されていたり、時計は六十進法だったりで、キミヒコとしては馴染みがあってわかりやすい。鉄道のレール規格も、アマルテア全土で統一されているなどという話も聞いたことがある。
そんなことをキミヒコがぼんやりと考えていると、一際強い風が吹いた。
肌を撫で通り過ぎていくそれに体温を奪われ、キミヒコは身震いする。
「ちょっと肌寒いな……」
「……もう初夏ですよ? 天気から見ても、今日の気温はそれほど低くないと思われます。……貴方、熱があるのではありませんか?」
ホワイトの口調が一転して、憂わしげなものとなる。
「すぐに司令部のテントまで行きましょう。厚着をして、横になってください。私には熱を感知する器官がないので、検温もしてもらいましょう」
「平気だって。お前は大げさなんだよ」
ホワイトの気遣いに、キミヒコはそう返した。
この人形は、キミヒコが病気をやってからというもの、体調のことには過敏に反応するようになってしまった。
生活習慣についてもそうだ。喫煙や飲酒については、元から嫌味をよく言われたものだが、最近は特にうるさい。
あまりに小言が多いため、心配されているとわかっていても、ついついおざなりな対応をしてしまう。
キミヒコは今回もそうしようとしていたが、不意にホワイトと目が合った。
金色の瞳が、じっとキミヒコを見つめ続けている。その瞳には、感覚器官としての機能は備わっていない。ただの飾りの眼球だ。
だが、その視線には強い意思が込められている。
そんなふうに感じられて、キミヒコはたじろいだ。
「わかった、わかったよ……。テントに行って、横になろうか。ついでに熱も測ってもらおう」
根負けしたように、キミヒコはため息まじりにそう言った。
◇
設営された軍用テントのひとつ。その中の簡易ベッドでキミヒコは横になっていた。
ベッドサイドの椅子にはホワイトが腰掛け、主人の様子をじっと見守っている。
キミヒコがこうしておとなしくしているのは、ホワイトの懸念のとおり、発熱が認められたからだ。
キミヒコ本人としてはなんともないつもりだったのだが、風邪でもひいていたらしい。おかげでこの体調不良について、また小言を聞かされる羽目になっている。
ホワイトからではない。帝国軍とキミヒコを繋ぐ、担当窓口の将校からだ。
「キミヒコ殿、作戦前にこのようなことでは困ります。体調管理は万全にしていただけなければ――」
「わ、わかってます。心配には及びませんよ、ラミー中尉」
キミヒコが取り繕うように言うが、その声に張りはない。
ついさっきまで体調不良など自覚していなかったのに、熱があるとわかれば途端に具合が悪くなったような気がしてくる。
「私が多少、体調を崩したところで、ホワイトの活動にはなんの問題もありませんよ」
「確かに、この人形の暴力性は問題なく発揮できましょう。しかし、あなたが十全でなければ、その制御には不安があるということです。ご自愛いただきたい」
キミヒコとホワイトのお目付け役として、参謀本部から派遣された将校、ラミーが慇懃に言う。
雇われてからこっち、キミヒコはこの男とはそれなりの付き合いがあるが、その態度はお堅い軍人そのままで変わりはない。プライベートではそれなりに砕けた態度にもなるのだが、仕事中はとにかく融通が利かないのがラミーという青年だった。
軍学校を出たばかりのこの新人士官は、参謀本部所属のエリートである。卒業早々に中央勤務なのだから、さぞや立派な出世街道を走っていることだろう。
キミヒコとは歳も近く、仲良くなって損はない相手だ。
「いったい、どちらへ行っていたのです? 時間はまだあるとはいえ、体調もよくないのにわざわざ出かけるとは、どんな用事だったのですか?」
ラミーが外出の理由を問う。
特に後ろめたいことがあるわけでもないので、キミヒコは素直に理由を説明した。
「昔の知り合いが、ここにいると小耳に挟んだもので。ちょっと、挨拶にね」
「おや、帝国軍に知己がいらしたとは」
「ええ。猟兵隊のミルヒ少佐です」
キミヒコの答えに、得心がいったとばかりにラミーは頷いた。
「ああ、ミルヒ少佐でしたか。あの方とは確かに、接点はあるでしょうね」
キミヒコのお目付役として派遣されただけあって、ラミーはこのあたりの事情をある程度把握していた。
「彼女、ずいぶん出世しているようで驚きましたよ。あの年齢で、佐官とはね……。よそ者なのに、うまくやれているようで、安心しました」
「猟兵は、基本的に佐官以上ですから。それに、国外出身とはいっても、元騎士です。実力に疑いはないですし、今の帝国軍では竜騎兵は重宝されます」
ミルヒは侵攻軍隷下の猟兵隊の一員ではあるものの、同じく侵攻軍隷下の航空隊にも籍を置いていた。
こういったややこしい指揮系統を、帝国軍は嫌いそうなものではある。だが、航空隊は新設の部隊であるから、致し方ないことなのかもしれない。
竜騎兵としての扱いは、ミルヒとしては願ったり叶ったりだろう。
騎士ハインケルであった頃から、彼女は竜騎兵であることにプライドがあるようだった。
しかし、順風満帆に見える彼女だが、気掛かりもある。
「ただ、どうも雰囲気が変わっているような気がします。……なにかありましたかね? 彼女」
ホワイトの魔力に対する反応の変化。すなわち、ミルヒという人物の本質の変性。
その理由について、キミヒコはラミーに探りを入れた。
「変わった、ですか? いえ、私にはわかりかねますが……」
キミヒコの問いに、ラミーはそう答える。
まあ、そりゃそうか。所属も違うし、接点はなさそうだしな……。
もとより、明確な答えを期待していなかったので、「そうですか」とだけ言ってキミヒコは話題を切り上げた。
「そういえば、中尉はどうされていたんです? 出撃した第一陣が帰ってくるまで、中尉も暇でしょうに」
「私の本来の仕事は、航空隊の実地検証です。まだまだ実験部隊という側面が強いですからね。やることは山積みですよ」
ラミーの言うとおり、彼の本来の仕事はキミヒコたちのお目付役ではない。参謀本部から現地に向かう将校ということで、この窓口業務を兼任するという形だ。
キミヒコが暇を持て余している間、彼は本来の仕事に勤しんでいたらしい。
竜騎兵の運用や飛行場の設備についてなど、実地での使い勝手はどうなのかという情報を収集していたのだろう。
「なるほど。相変わらず、仕事熱心ですね」
「職務に忠実なのは、帝国軍人として当然のことです」
キミヒコのおべっかに、ラミーはそっけなくそう返した。
だが、態度こそつれないが、内心ではまんざらでもないようにキミヒコには思えた。それがわかるくらいの付き合いはある。
監視の意味合いが強いだろうが、帝都からここに来るまで、ラミーはキミヒコと行動を共にしていた。
「さて、第一陣が帰ってくるまで、私は眠らせていただきますかね」
「ええ、そうしてください。何かあれば医務官にお願いします。私はまた出てきますので」
それだけ会話を交わして、ラミーはテントを出ていった。
ホワイトと共にテントに残されたキミヒコは、ベッドの上で毛布にくるまり、目を閉じた。
休まなければと思うキミヒコだったが、発熱からくる気だるさと寒気が、なんとも不安な気分にさせてくれる。
こうした心細い気持ちになったとき、キミヒコが頼る存在は決まっていた。
モゾモゾと体を動かし、毛布から片手を出す。そうしてから、キミヒコは顔を横にしてホワイトを見つめる。
それを受けて、人形は無言のまま、座る椅子をそっとベッドに寄せて、その手を優しく握りしめた。
体温のない、ひんやりとした小さな手が、キミヒコには心地よく感じられた。
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