第82話 もしもかみさまがいるのなら

 顔の上に、大きな影が走った。

 気がついた時には、頬がかっと熱くなっていた。


「信じられない! お前はなんて事を言うの……!」


 底のない、ぽっかりと浮かんだ暗闇のような眼が、自分を見下ろしている。

 六歳になったばかりのアルティには、その時一体何が起こったのか、全く把握出来なかった。

 ただ、目の前にいる母親が怒っている事だけはよく理解出来て、小さな身体が震え出すのを抑えるのに精一杯だった。


「あの青い桜の森は、とても綺麗ですね」


 ただ、そう素直に思った事を言っただけだった。

 青は高貴な色だと母親が言っていたから。

 ただ、喜んで欲しいと、自分を褒めて欲しいと、せめて、少しだけでも自分を見て欲しいと、そう思った、から。


「あんな恐ろしい毒素を振り撒く森を綺麗などと……! お前は抗体持ちなのだから、早く伝言局の人間に連れて行って貰いなさい」


 自分と同じ、赤茶けた髪に明るい緑の眼を持つ母親は、家族の誰とも同じ色を持たない瞳の赤ん坊を大事そうに抱えて、アルティを穢らわしいと言わんばかりに睨みつけている。

 同じ母を持つ子供として生まれ落ちた筈なのに、どうしてこれ程までに違うように扱わられてしまうのか。

 年月が経つにつれて、それがあまりにも理不尽な理由からだと理解出来るようになっていったけれど、当時のアルティには、それをわかる余裕などなかった。

 とにかく、自分が悪い事をしてしまったのだ、と。

 とにかく、母親に許してもらわなければ、と。

 それだけで頭がいっぱいになっていて、必死だった。


「お母さま、ごめんなさい! もう二度とあんな事を言ったりしません。ごめんなさい、ごめんなさい! お願いします、アルティは……!」

「誰か! 早くこの子をここから連れ出しなさい!」


 母は男にだらしのない女だった。

 外の男性だけでなく、数人の使用人達とさえ関係を持っていた事すらある。

 妹は、その誰ともしれない男の子供なのだと、アルティは知っている。

 そして、母はアルティがその秘密を知っているのでは、と疑っているのだ。

 アルティはその事を知ってからも、決してそれを口にしたりはしなかった。

 きっと母が困ると思ったから。悲しむと思ったから。

 だから、絶対に言わないと決めていたのだ。


(——それなのに)


 あの家にいる誰一人として、自分を助けてはくれなかったし、助けようとすらしてくれなかった、とアルティは理解している。

 母が抱えている秘密を打ち明けてしまったら、屋敷に仕えている全員がきっと父に断罪されてしまうだろう。

 解雇されてしまえば、今のようなまともな賃金を与えられる仕事には就けなくなってしまうかもしれない。

 けれど、娘一人を蔑ろにするだけで、全員が助かるのだ。

 アルティ一人を、見て見ぬふりをすれば。

 ただそれだけで、自分は全員から見放された。

 いないものとして扱われたのだ。

 ただ、それだけで。


「お願い、お願いです、お母さま。アルティはもう間違えません。もっと、ちゃんと、上手くやるから、お願い、捨てないで……お願い、お願いします……」


 ひとりぼっちにしないで。

 呟いた言葉が、暗闇の中に、ぽつ、と虚しく落ちる。

 母親の言いつけ通りに動く使用人達に引き摺られて、押し込められたのは外からしか開ける事の出来ない小さな部屋だ。

 暖炉どころか毛布や灯り一つさえない、冷たく、暗い室内で、アルティはいつも、扉を叩き続けて許しを乞う事しか出来なかった。

 熱い涙が何度も擦って腫れ上がった頰にぼろぼろと零れ落ちて、ちりちりと痛む。

 扉を叩き続けた事で両手は内出血を起こし、それでも止めずにいたので、とうとう皮膚が破れて血が滲んでさえいた。

 許されなければいけない。母に、許しを乞い、何としても許されなければ。

 でなければ、此処にいられないのだから——。


 泣き続けて過呼吸を引き起こしても誰も助けてくれず、息苦しさのあまりに喉を掻き毟りながら、アルティはそれでも、お願いだから此処から出して、と懇願した。

 もう二度と愛して欲しいなどと言わないから、せめて、自分が此処にいる事を許して欲しかった。

 ひ、ひ、と息苦しさに短い呼吸を繰り返し、胸元をきつく握り締めながら、アルティは固く閉ざされた扉を見た。

 涙で滲む視界で、きい、と軋む音を立てて、薄暗い室内に細く光が入り込む。

 淡く優しい光が、力無く床に横たわっていたアルティまで届くと、細長い影がひとつ、室内に入ってくる。

 母親の甲高いヒールの音ではない、使用人達の戸惑うような靴音でもない、ゆっくりと、確かめるような足音に、アルティは眼を瞬かせた。

 明るい緑の瞳からは、透明な涙がぽたりと床に落ちている。


「こんにちは。驚かせてすまないね。君が、アルティかい?」


 アルティはただ呼吸を整えながら、自分を見下ろしてくる男を見つめ返した。

 くすんだ緑の髪、灰色の瞳のその人が、悲しげに歪んで見える。


「ああ、可哀想に。こんなに泣き腫らして……怖かっただろう」


 紺色に金の縁取りが施された制服を着た男性は、そっとアルティを抱き起こした。

 突然の事に戸惑い、アルティが何も言えずにいると、彼は優しく笑いかけてくれる。

 よしよし、と背中を撫でてくれる手があまりにもあたたかくて、やさしくて。

 そんな事をされたのは生まれて初めてで、気がついた時には、しゃくりあげてわんわんと声を上げて泣き出してしまっていた。

 この人は————かみさま、だ。

 思わずそう呟くと、彼は困ったように笑っている。


「私の名前はジルバだ。今日から君の、上司……、と言うのも味気ないね。仲間、と言った方がいいかな」

「な、かま……?」

「そうだよ。これから一緒に暮らして、一緒にお仕事をする為のお勉強や、身を守る為に必要な事とかを教えるんだ」


 彼の言う事は泣き続けてぼんやりした頭では難しくて、アルティは上手く飲み込めない。

 それでも、一つだけ理解出来た事に、とてつもなく悲しいのに、同じくらいにほっとしたような、言いようのない気持ちにさせられる。


「アルティ、このお家には、もう、いられないんですね……」


 彼はその言葉に、何も言わなかった。

 ただ悲しい顔をして、手のひらが白くなるまで握り締めている。

 彼はまるで自分の事のように悲しんでくれているけれど、この家にいなくなっても、自分にはこの優しい人が一緒にいてくれるのだ。

 それは、今までのような冷たく苦しい日々を失ってでも、自分に必要なものに思えた。

 あれだけ許されなければいけないと思っていたものを、捨ててでも。

 アルティは顔を上げると、恐る恐るジルバを見上げた。


「じゃあ、先生……、ううん、師匠、って呼んでもいいですか?」


 絵本で読んだ事がある。

 困った人々を優しく助けてくれる魔法使いの話で、その魔法使いは、たくさんの弟子がいた。

 弟子達は魔法使いを、師匠と呼んでいて、アルティにとって、目の前の彼も同じように見えたからだった。


「はは、師匠か。確かに、弟子と言える子達はいるけれど、そう呼ばれるのは初めてだ。気恥ずかしいが、嬉しいなあ」


 照れくさそうに笑いながら、彼はゆっくりと確かめるように頷いてくれる。

 その人の良さが滲み出たような仕草が、アルティには嬉しくて、思わず笑みが零れしまっていた。


「師匠、アルティです。よろしくお願いします」


 そう言ってアルティが小さな手のひらを差し出すと、指先にまで血が滲んでいる事に気がついて、慌ててそれを引っ込めた。

 優しい彼が、汚れてしまう。

 そんな気持ちを感じ取ったのか、彼は灰色の瞳を柔らかに細めている。


「ここから出たら、すぐに手当をしよう」


 それでも、彼は躊躇う事なく、優しく労わるように、アルティの手を握り締めていた。

 ——その手が、赤い血で濡れてしまっても。

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