第16話 ミツバチごっこはこりごり

 こん、と窓の外から音が聞こえて、フィスカスは瞬きを繰り返してから、それまで片付けていた書類からゆっくりと視線を上げた。

 常ならばまるで猫のように眼を細めて笑っている彼の、その横顔は今は少しの感情も表していない。

 それはまるで、道化が役を降りた瞬間にも似た変化だ。

 フィスカスは薄いレースのカーテンが揺れる窓へと近づき、背を向けるようにして壁にもたれると、こんこん、と窓枠を叩いて視線だけを外へと向けた。

 森に近い場所に設置された部屋の外という事もあり、通常ならば誰も近寄る事はないが、そこには砂色の外套を着た小柄な人物が一人、立っている。


「これ、頼まれてたやつ」


 その人物は慣れた様子で紙片を取り出すと、窓の桟にそれを置いた。

 しなやかな指先は黒い革手袋で覆われ、その姿を晒さぬようきっちりと隠されているが、細身の体躯と声音は女性のそれだとすぐにわかる。

 フィスカスは「ありがとう」と小さく礼を言い、その中身を確認すると、深々と息を吐き出して肩を竦めている。


「なあ、聞こえが良すぎる耳っていうのもどうかと思わないか?」

「それで飯食ってる身だから、あたしはなんとも言えないな」


 外套のフードで顔が隠れているので表情は見えないが、声の調子から笑う気配を感じて、フィスカスも口端を少しだけ持ち上げた。

 そうそう本心を見せないよう努めてはいるのだけれど、顔を合わせればこうしてどちらも気を抜いてしまうのは仕方のない事だろう、と深い緑の瞳で見つめる紙片を指で弄びながら、フィスカスは思う。


「さっきの、特殊配達員の子達?」


 そう聞きながら、女は顔を室内の青い扉の方向へと向けている。

 少し前までいた二人の事だろう、そこにはほんの僅かに憐れむような感情が見える気がして、フィスカスはゆっくり眼を細めて頷いた。

 彼女には、あの二人がここで無理矢理働かされているように見えるのだろうか。


「そう。かわいいだろう?」

「可哀想、じゃなくて?」


 やや呆れたような声音の問いかけに、フィスカスは小さく笑うきりで答えはしない。

 ただ抗体を持っているというだけで強制的に働いている彼女達は、それでも不満や不平を口にはしない。

 それを可哀想と思うかどうかは、フィスカスは敢えて考えないようにしている。

 ヴァニラは仕事だと割り切っているものの、特殊配達員として森に入る事を怖がっているのは、よく見ていればわかる事だった。

 病を患う母と幼い弟妹達を守り、支える立場にある為か、決して顔には出さず、泣き言を言う事もないのだが。

 リグレットに至っては、抗体値が異常に高いせいだろう、森の中を怖がる素振りすらない。

 あの破天荒で暴君とも言えるイヴルージュに育てられたにしては、随分と純粋に育ったものだと感心したが、その辺りはおそらくグレイペコーの影響だろう。

 グレイペコーはヴァニラに少し似ていて、その上、イヴルージュの言う事には酷く従順だ。

 今までの経験から皮肉な考えをしていると思いきや、基本的に他者を拒もうとはしていないので、よく言えば優しく、悪く言えば甘い。

 珍しく自分達に似ている者がいるではないか、と少しばかり嬉しく思っていたのに、と、つい初対面で意地悪を言ってしまったが、いまだに根に持たれているのを考えると、あれは流石に悪ふざけが過ぎてしまったかもしれない。

 まあ、今更吐き出した言葉を取り消せる筈もないので、そんな事を考えても仕方ないのだけれど、と内心で苦笑いを浮かべたフィスカスは、首を少しだけ傾けて口を開いた。


「それより、例の件はどうなってる?」

「あっちはかなり時間かかりそう。アニーが接触出来そうだから、そこから粘ってみるよ」


 その言葉に、フィスカスは僅かに目を細め、窓の外にいる彼女に顔を向けた。

 きっと彼女も何を考えているのか気付いているのだろう、外套でやや分かりにくいが、肩を竦める仕草をしている。


「あまり深追いしないように言っておいてくれないか。それから、」

「アニーにバレないよう、あたしについてって欲しいって言うんでしょ。わかってる。あいつ、危なっかしい所があって心配だし」


 彼女の言う通り、アニーという少女はまだ年齢も若く、片耳とその聴覚を失っている関係で、反応が鈍くなってしまう時がある。

 性格的にも無鉄砲で心配になる事が多いが、年長者でしっかり者の彼女がついているのなら、きっと大丈夫だろう。


「はは、流石。ガーラは優秀だ」


 口元を押さえて軽く笑うと、窓の外にいる彼女は外套のフードを少しだけ持ち上げて視線を向けてくる。

 赤茶けた短い髪から覗く、鮮やかな夕焼け色の隻眼は悪戯っぽく細めていて、フィスカスが眼帯で隠された片目にそっと触れようとすると、仕事中にじゃれるな、と軽くあしらわれてしまう。

 仕事中じゃなくたって野良猫みたいにそうそう触らせてくれないだろうに、とぼやけば、珍しく小さな笑い声が聞こえているので、フィスカスも口元を緩めてしまっていた。


「あんたがあたし達の為にこうしてくれてるんだ、そのくらいはしないとね」

「まあ、程々に頼むよ」

「勿論。あたし達がそれをわからない筈ないだろ」


 引き際は弁えているのだと言外に言われて、フィスカスは吐息混じりに笑った。

 じゃあね、と軽く手を振って去っていく彼女の気配が消えるまで見送ると、手にしていた紙片を視線の高さにまで持ち上げて、ふ、と息を吐き出す。


「忙しくなりそうだな」


 あーあ、仕事は楽じゃないねえ、と伸びをして、フィスカスは残った仕事を片付ける為に机へと足を向けていた。

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