第15話 不器用なピルエット
全速力で森の中を走り続けていたので、ぜいぜいと呼吸が上がり、幾ら吸い込んでも空気が肺に届いていかない。
吹き出すように汗が出てきていて、額から伝って眼に入りそうになっているのを拭いながら、リグレットは大きく息を吐き出した。
自分勝手な事は、わかっていた。
だからこそキナコを連れて行ける筈もなく、たった一人きりで入る森の中はいつもと違ってとても心細くて、それも相待って全速力で駆け抜けてしまっていたのだ。
どうにか三区にまで辿り着いたものの、流石に休みなく走り続けていたので、息が苦しく、足が痛くて重い。
閉じた門の鍵をしっかり閉めた事を確認してからその場でしゃがみ込むと、リグレットは息が整うまでじっと深呼吸を繰り返した。
その間、身体に異常がないかを確かめてみるけれど、毒素に侵された際、初期に起こる筈の酩酊感も眩暈もなく、頭痛などもない。
呼吸は苦しいけれど、深呼吸を繰り返しているうちに、少しずつ落ち着いてきている。
もしかして一日中森の中にいても大丈夫だったりして……、などと考えてしまい、その途端、リグレットは自分がしてしまった事に対する罪悪感が、足元からじわじわと湧き上がってくるのを感じていた。
きっとノルはかんかんに怒っているだろうし、グレイペコーは呆れながらも心配しているだろう。
大きく息を吐き出し、ようやく呼吸が戻ってきたのを確かめたリグレットは、ゆっくりと立ち上がって、ポケットに入れていた一枚のカードをそっと取り出した。
でも、だけど。
呟いて、またポケットにカードを入れて小さく頷くと、リグレットは三区の伝言局へと足を向けた。
さよならさえ出来ないのは、きっと、とても淋しい事だから。
足を向けた三区の伝言局は、建物自体は一区よりやや小さいくらいで、中の構造はよく似ている。
いつも配達で訪れる二区は、農業が盛んな牧歌的な風景が続く穏やかな地区であり、他の区より住民が少ない為、設置された伝言局も規模が小さい。
午後の窓口業務が終わりに近付いた時間帯のせいか、三区の伝言局はとても落ち着いているように見えた。
通常、一区と二区を往復する配達業務を行っているリグレットにとって、三区はとても不慣れな地区だ。
ブルーブロッサムの花が散る時期に遊びに来た事はあるが、他の地区より治安が悪い為、グレイペコーからは一人で歩き回らないようにきつく言い聞かされている。
それに、夜間に森に入るのはやはり危険だろうし、明るい時間帯に一区まで戻る事を考えると、三区の地理に詳しい人間に頼った方がいいだろうと伝言局に来たものの、皆忙しそうにしていて話が出来そうな人すら見つからず、右往左往してしまう。
どうしよう、ととぼとぼ廊下を歩いていると、丁度中庭に出たらしく、そこでは黒と亜麻色の毛並みをした二匹の狼がのんびりと日向ぼっこをしているのが見えた。
森に入る時には必ず一緒にいる、相棒であるキナコを思い出して、そこからノルやグレイペコー達の事まで考え始めてしまい、ますます気持ちが落ち込んでしまって俯いていると、亜麻色の毛並みをした狼が尻尾を振って駆け寄ってきていた。
「こんにちは。ええと……、リーノとキュラ、だよね?」
三区の狼は確か、黒い毛並みの方がキュラ、亜麻色の方がリーノという名前がついているのだと、以前グレイペコーから聞いている。
キュラは警戒心が強いのか、つんとすました顔で一定の距離を置いてじろりと見つめてくるが、リーノはとても人懐っこく、構ってと言わんばかりに手に擦り寄っていて、リグレットは思わず「かわいい」と頬を緩めてしまった。
よくブラッシングされているのだろう、ふわふわの柔らかな毛並みに触れている内に、沈んだ気持ちがようやく持ち上がってくる。
「あれ? リグレットちゃん?」
どうしたの、と突然背後から呼びかけられて、リグレットは慌てて振り返った。
跳ねた赤い髪と深い緑の眼、特殊配達員の紺色の制服——三区の特殊配達員達のまとめ役であるフィスカスに会うのはこれが初めてではないけれど、リグレットにとっては関わりの少ない人物だ。
この時間帯にこの場所にいる事で怒られたりはしないだろうか、とリグレットはぺこりと頭を下げて、ぎゅうと胸元を握り締めた。
けれどフィスカスは少しも気にした素振りもなく、もしかしてまた迷子かな、とにこにこと笑いながら、側に寄って来たキュラを優しく撫でている。
警戒心の強そうなキュラがすっかり心を許している所やにこやかな様子に、リグレットはほっと息を吐き出して、急いでポケットに入れていたメッセージカードを取り出した。
「あ、あの、このお宅にカードを届けたいんです。何処か知りませんか?」
理由も言わずにただそれだけを問いかけると、フィスカスはぱちぱちと瞬きを繰り返していたが、やがて「ふうん、なるほど」と楽しげに眼を細めて笑っている。
一体何がなるほどなのかリグレットにはさっぱりわからないけれど、緊張感でいっぱいになってフィスカスの顔色を伺うと、彼はその問いかけに疑問すら口にせず頷いて、廊下の奥へと足を向けていて。
「リグレットちゃん、その前に一回お医者さんに診て貰おうか」
「え」
「じゃないと俺が副局長達に怒られちゃうからさ」
「す、すみません……」
申し訳なさでいっぱいになりながらしおしおと項垂れると、フィスカスが笑って先を案内をするので、リグレットは慌ててその後ろを追いかけていた。
***
「ヴァニラちゃん、ちょっといい?」
業務中にも関わらず、ふらりと何処かに消えていたフィスカスが部屋に戻って来た事に、もう腹立たしさすら感じないヴァニラは、呼びかけに視線だけを持ち上げた。
ヴァニラが座る机の上には積み重なった書類が並んでいて、少しもよくないです今すぐ帰りたいので代わりに仕事をして欲しいです、と言いたいのをどうにか押し留めて息を吐き出そうとしたが、そうする事が出来ずに紫の大きな瞳をぱちりと瞬かせる。
フィスカスの後ろに、三区では見慣れない髪色の少女がいたからだ。
「リグレットさん?」
ヴァニラは三区と一区の往復を任されているが、リグレットが任されているのは一区と二区の往復であり、通常、三区に来る事はない。
一度迷子になったと言って三区に来た事もあったが、今日の分の配達は終えている筈なので、それも考え難い。
だとするなら、規則を破って此処へ来てしまった、という事になる。
どうして、と口にしようとして、ヴァニラはそれを止めて唇を引き結んだ。
フィスカスがリグレットに見えないようにして、しい、と人差し指を口元に当てているからだ。
何かを企んでいるのか、それとも単にリグレットを庇っているのか。
わからないけれど、フィスカスが何も言わないという事は、一番危惧しなければならないリグレットの身体の異常について、つまり、既に医師による診断等は終えているのだろう。
ヴァニラの目から見ても、局内でも飛び抜けた抗体値を持つと言われているリグレットは、具合が悪そうには全く見えない。
自分であれば間違いなく二、三日は寝込むだろうに、とヴァニラが密やかに息を吐き出してしまう程に。
リグレットはフィスカスの後ろで申し訳なさそうに一枚のメッセージカードを持っているので、何かしらの理由があって此処へ来てしまったに違いない。
「ヴァニラちゃん、悪いけどこのカードをリグレットちゃんと一緒に届けて欲しいんだ」
リグレットが手にしているカードを指してそう言ったフィスカスは、どうやらそれが違反であると知りながら容認しようとしている、らしい。
何の戸惑いも躊躇もないのは、その表情を見ればよくわかる。
思わず眉を顰めたヴァニラは、リグレットに聞こえないよう慎重に、フィスカスに小声で問いかけた。
「……、いいのですか?」
明らかに違反行為だ、とわかっていて告げた言葉に、フィスカスは肩を竦めているのにも関わらず、少しも悪びれずに笑っている。
「俺は全世界の女性達の味方だからね」
「…………」
その言葉に、そうですか、と返す気にすらならなくて無言のまま書類を集めていると、流石に無視は辛いなあ、と言いつつもけらけらとフィスカスは笑っている。
それに、と付け足しながら、彼は顎に手を当て、楽しげに言う。
「この辺で恩を売っといた方が良さそうかなって思ってね」
一体誰に、と問いかけようとして、止めた。
フィスカスが素直に教えてくれる筈はない。
どうせ碌でもない事を考えているだけだ、とヴァニラは手にしていた書類を整えてフィスカスがいつも座る席に置き、てきぱきと筆記用具を片付けながら溜息を吐き出した。
「たった今、私に借りを作っていますけど」
「ヴァニラちゃんにはこれからもいっぱい恩返しするって」
「言葉より仕事で返して頂けると助かります」
その答えに、あはは、辛辣! とフィスカスはけらけらと笑い転げている。
今度グレイペコーが来た時は、この男の顔面を容赦なく握り潰して貰おう、などと考えていると、目の前でひらひらと手を揺らしていて。
「こっちは俺がなんとかしておくから。迷惑かけて申し訳ないけど、よろしくね」
珍しく困ったような笑みを浮かべた彼に、殊勝な言葉まで言われてしまい、ヴァニラは深く長く息を吐き出した。
そうやって妙な所で気遣いが出来る辺りが、本当にたちが悪い。
「行きましょう、リグレットさん」
頭を下げ、部屋を後にしようと背を向けると、リグレットが慌ててフィスカスに礼を言っているのが聞こえていた。
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