第17話 漣と溶けゆく煙の行方

 三区の伝言局を出てから十分程歩いて辿り着いたのは、沢山の商店が立ち並ぶ大きな通り。

 リグレットが普段過ごしている一区は街並みが白で統一され、賑やかながらも綺麗に整えられた華やかな店が多いが、三区ではベビーピンクとパステルオレンジの色合いを基調とした建物が多く、店の前にまで沢山の商品を並べていたり、安さを強調する文句が書かれた立て看板が出されていたりと、問屋街にも似た雑多で陽気な活気で満ちあふれている。

 織物を中心に様々な小物や衣類を扱う店が多いが、食べ歩きが出来るような食事を提供している店もあるようで、一区ではあまり嗅ぎ慣れない、香辛料をふんだんに使われている料理の香りが辺りに漂っていた。

 普段ならば空腹を感じている所だろうが、今は少しもそんなふうにはならず、それどころか心細ささえ感じてしまって落ち着かない、とリグレットは思い、前を歩く小さな背中を追いかける。

 艶やかな銀色の長い髪を二つに結ったヴァニラは、見た目こそ幼い少女のようだが、ノルやグレイペコーと変わらない程の年齢で、丁寧できっちりと仕事をこなす先輩配達員だ。

 迷いなく先を歩いているのに、ちゃんとついてきているか確認をする為に、何度も振り返ってくれるその仕草がどうもグレイペコーを思い出されてしまい、慣れない場所に戸惑うリグレットも少しばかりほっとしてしまう。

 通りの真ん中辺りまで歩いていくと、ヴァニラは立ち止まり、リグレットに声をかけてから細い路地を右に曲がった。

 人が一人入っていくのがやっとの狭い路地は薄暗く、暗闇からに何かが這い出てきそうで恐ろしくて仕方がないが、ヴァニラは慣れているのだろう、全く動じる事はない。

 小さな背中にくっつきそうな程の距離でついていくと、やがて路地を通り抜け、再び広い道へと出た。

 そこは先程とは違い、住宅が多い通りのようで、あちこちの壁や窓には鮮やかなピンクと白の花が飾られ、その華やかさに目を引かれる。

 思わず感嘆の声を上げて眺めていると、名前を呼ばれたリグレットは慌ててヴァニラの後ろについていった。

 少し歩いた所にあったのは素朴でシンプルな白い扉の住宅で、カードの宛先を確認したヴァニラは、真っ直ぐにリグレットの顔を見上げてくる。


「ここですね。リグレットさんは慣れていないと思うので、対応は私がしますが、構いませんか?」

「は、はい。お願いします」


 緊張した面持ちで頭を下げると、ヴァニラは小さく頷いて、扉をノックする。


「すみません、伝言局の者です」


 声をかけると暫く反応がなかったが、その内にぱたぱたと足音がして、中から出てきたのは柔らかそうな髪を緩く結った女性だった。

 カードの差出人である男性より少し若く、ヴァニラ達くらいの年齢に見えるので、彼の妹だろうか。

 酷く疲れ切っていて、何のご用でしょうか、と戸惑ったように視線を向けてくる。


「突然申し訳ございません。こちらを届けに伺いました」


 ヴァニラは丁寧にそう言って背中を押すので、リグレットは慌ててポケットにしまっていたカードを女性に差し出した。

 女性は訝しげに眉を顰めてカードの宛名を見ていたが、誰からのものなのか解ると、大きく目を瞬かせている。


「これ、兄さんからのカード? どうして……」

「彼女が届けてくれました。本来なら禁止されている事ですので、どうか内密にお願いします」


 ヴァニラが声を潜めてそう言うと、辺りへきょろきょろと視線を向けた女性は、戸惑いながらも中へ入るよう促してくれた。

 視線を向けるとヴァニラがしっかりと頷いているので、リグレットは礼を言って頭を下げると女性の後をついていった。

 中はあまり広くはないが掃除がよく行き届いていて、丁寧に暮らしているのが見て取れる。

 入ってすぐの所にある部屋は居間のようで、四人がけのこっくりとした色合いをしたテーブルセットが置かれている。

 女性はそこへリグレット達を勧めてくれ、母にカードを見せてきます、と奥の部屋へと入っていった。

 居間から続くその部屋は扉がなく、中はリビングからしっかりと見える位置にベッドが置かれていて、そこには一人の女性が横たわっている。

 いっそ子供のようにすら感じられる痩せ細った身体、水分が抜けて乾燥しきった髪、年齢よりもきっと深く刻まれているのだろう皺が浮かぶ手足に、ぼんやりと天井を見上げる横顔。

 ひゅうひゅうと呼吸を繰り返しているその人は、女性が声をかけると、微かに顔を動かし、虚ろな目をリグレット達に向けていた。

 誰に教わったわけでもないのに理解出来てしまう、終わりが近いのだろう独特な呼吸に、この人があの男性の母親だ、と気付いたリグレットは、思わず胸元を握り締めてしまう。


「お母さん、お母さん。兄さんからカードが届いたよ」


 優しく呼びかける女性は、母親にもわかるようにカードを見せた。

 風切音にも似た呼吸をしているその人からは声らしい声は出ていないけれど、懸命に瞬きを繰り返し、古ぼけた硝子のような眼でじっとカードを見つめている。


「配達員さん達がね、特別に兄さんのカードを持ってきてくれたんだ。ほら、間違いなく兄さんの文字だよ。見える?」


 女性の言葉に答えるように、母親は微かに顎を上げた。

 はくはくと乾いてひび割れた唇が動くのを見て、女性は瞳を柔らかく細めて、カードに書かれた文字をゆっくりと読み上げていく。

 最後に立ち会えなくて、苦しくて悲しくて悔しくて堪らない彼の想いと、母に対するあふれんばかりの愛情と、感謝の言葉。

 ゆっくりとひとつひとつを確かめるような女性の声。

 それらは煙のように、空気中にゆっくりと溶けて、消えていく。

 深く皺が刻まれた目元からは、透き通った涙が零れ、静かに頰を伝っている。



 程なくすると、母親は呼吸を少し落ち着かせ、くたびれたように目蓋を閉じた。

 不安になったリグレットがヴァニラに視線を向ければ、眠っていらっしゃるだけですから大丈夫ですよ、と微かな声でそう教えてくれる。

 落ち着いた母親の寝顔を見て、娘は目元を赤くさせたままテーブルセットの前まで来ると、お待たせしてすみません、と頭を下げて台所へ向かおうとするので、ヴァニラは首を振ってそれを止めた。


「どうぞお構いなく。すぐにお暇しますので、お母様の側にいてあげて下さい」


 立ち上がって玄関へ足を向けるヴァニラに倣い、リグレットもその小さな背中を追いかけて行くと、女性はせめて見送りをさせて下さいと玄関の扉の前まで付き合ってくれる。

 外に出ると空気は少しひんやりしていて、見上げる空は少し赤みが差してきていた。


「本当にありがとうございます。兄は一区で仕事をしていて家に帰って来れないから、最後には間に合わないかと思っていたんです」


 ありがとう、と女性はリグレットとヴァニラの手を交互に握り締めて何度も何度もそう言った。


 お礼を言われたいわけではない。

 見返りが欲しかったわけでもない。

 ただ、自分なら、最後にさよならを言えないのはさみしい、と思ったから。

 その手を握って、大丈夫、と言ってあげたい、と思ったから。


 だけど、どうしようもなく胸が苦しくて、リグレットは唇を緩く噛んで、小さく頭を下げていた。

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