第18話 星屑とグレナデンシロップ
カードを届け終えて大通りまで戻ってくると、あれ程騒がしくて忙しなく思えていた筈の其処は、夜を迎える為にうっすらと薄い赤に染められ始めているからか、何処かよそよそしさを感じられる。
隣を歩くヴァニラは事務的に話をしたきりで、会話らしい会話をしなかった。
リグレット自身、先程の家族の事で頭がいっぱいになってしまい、つい俯いて地面ばかりを見つめてしまっている。
誰かの笑い声が聞こえるけれど、頭の中がやけにぼんやりとしていて、まるでどこか別の世界から聞こえてくる音みたいだ、と思い、リグレットはヴァニラの横顔にそっと目を向けた。
大人の女性である筈なのに、幼い故の丸みを失わない輪郭と長い睫毛の先が、夕暮れに照らされほんのりと赤く染められている。
ヴァニラは視線に気がつくと立ち止まってリグレットを見つめていて、身長が低い為だろう、自然と見上げてくる形になるのが何だか擽ったく感じられたリグレットは、小さく笑んで首を傾げた。
「気になりますか」
素っ気なくも思える短い問いかけに、リグレットは眼を瞬かせる。
おそらく、先程の家族の事を言っているのだろう。
あの女性はありがとうと感謝を述べていたけれど、本当にそれで良かったのかどうかは、リグレットはよくわからなくなっている。
悲しい、というだけでは、きっとない。
心細さや淋しさ、ほんの僅かな安堵感と空虚感、そして、やるせなさ……、言いようのない様々な気持ちがあふれてない混ぜになって、ぐるぐると身体の中を巡っている、のだ。
リグレットが頷いて黙り込んだきりでいると、ヴァニラは視線を俯かせて瞬きを繰り返していたが、やがて緩く頭を振って髪を揺らすと顔を上げた。
「落ち着いたら声をかけてみます。私、近所なので」
様子がわかったら一区へ行った時にお伝えしますから、と言うヴァニラをリグレットは驚いて見つめるけれど、彼女は表情を崩す事なく街並みに視線を向けて再び歩き出していた。
小さな背中は芯が通ったように真っ直ぐで、彼女の本質を表しているかのように見える。
きっと自分の落ち込みようを見て気にかけてくれたのだろう、とリグレットは嬉しくなって顔を綻ばせた。
「ヴァニラさん、ありがとうございます」
駆け足で隣まで追いついたリグレットがそう言うと、顔を見上げてくるヴァニラは、ふ、と目元を和らげてから、ゆっくりと微笑んでいて。
よく顔を合わせるという程ではないが、会った時には真面目でそつなく仕事をしている印象を受けていたので、彼女の柔らかな表情を見た事がなかったリグレットは、すっかり心を許してしまっている。
彼女には幼い弟妹が多いと聞いているので、そのせいだろうか、ヴァニラといるとグレイペコーと一緒にいるような気持ちになって、安心してしまうのだ。
何も言わずに一区を出ていってしまったから、きっととても心配しているだろう。
だからこそ早く帰らなければ、と思うのに、少しだけ足取りが重くなってしまう。
そんな事を考えている内に三区の伝言局まで辿り着いたけれど、ヴァニラは何も言わずに森へと続く裏口へと足を向けている。
どうやら其処まで見送ってくれるらしい。
また一人きりで森に入らなければならない事を考えると、途端に不安でいっぱいになってしまうが、ヴァニラの飾らない心遣いにほっとする。
ふ、と自然に笑みを零していると、突然、目の前に大きな薄茶色の塊が突進してきて、リグレット吃驚しつつも脇へと避けた。
あっという間に通り抜けていった塊を、ば、と振り向いて見てみれば、直ぐにそれは勢いよく駆けつけてきて、リグレットの腰辺りにぐいぐいとくっつき、きゅうきゅうと鳴き声を発している。
尖った大きな耳、ふわふわの毛並み、透き通っていてまんまるな瞳。
「キナコ!」
一区に置いてきてしまった筈のキナコが何故三区にまで来たのか不思議でしょうがないけれど、それよりも何よりも、ずっと一緒にいてくれる相棒とも呼べる存在が此処にいてくれる事が堪らなく嬉しくて、リグレットは思わずキナコの首筋にぎゅうと抱き付いた。
独特の獣臭さと、しっとりとした草木の香りに、鼻先がつんとする。
「あ、おかえり」
そう言ってのんびりキナコの後ろから現れたのはフィスカスで、どうやらリグレット達が伝言局を出て暫くした後、騒がしい鳴き声が聞こえて行ってみるとキナコが森の入り口である門の前で吠えていたらしい。
「多分ね、リグレットちゃんが一区を出てから副局長かグレイペコーがすぐ後を追いかけさせたんだと思うよ」
「上手くリグレットさんを追いかけられたのですね。何も掴めなければ一区に戻っていたでしょうから」
「ごめんね、私を追いかけて、ここまで来てくれたんだね……」
狼達は単独で森の中を移動出来ないのだけれど、先に行ったリグレットの匂いを辿りながら、どうにか此処まで追ってきてくれたのだろう。
キナコの懸命さと頑張りを耳の後ろを撫でながら褒めてやると、嬉しそうにぱたぱたと尻尾が揺れている。
その様子を見守っていたヴァニラは、リグレットの隣にしゃがみ込むと、キナコが警戒しないよう手のひらの匂いを嗅がせてから、そっと頭に触れた。
子供のような小さな手のひらは、優しく薄茶色の毛並みを撫でている。
リグレットがそれをぼんやり眺めていると、彼女がゆっくり顔を向けて名前を呼ぶので、思わずどきりとしてしまい、慌てて声を裏返しながら返事をしてしまう。
「リグレットさん、規定時間外の配達や長時間森に入るのは違反行為です。身体にも大きな負担がかかります。もう二度と、こんな無茶をしてはいけませんよ」
「はい……、身体の事もあるし、他の特殊配達員さん達にも迷惑がかかるから良くない、ってノルにも言われました」
ごめんなさい、と謝ると、ヴァニラは暫し地面に視線を向けていたが、それもありますが、と小さく呟くように、言葉を続けた。
「伝言局は国が運営している、というのは知っていますよね。それは、違反行為を国に把握された場合、何らかの処分が下される可能性がある、という事でもあるのです」
え、と思わずリグレットが声を零すと、ヴァニラは静かに瞬きを繰り返し、真っ直ぐに紫色の瞳を向けて唇を開く。
「それは、あなただけでなく、伝言局として、責任者として、の処分かもしれません」
つまりは、ノルや局長、もしくは伝言局全体が、今回の件で監督責任を問われて何らかの処分を受ける可能性がある、という事なのだろう。
自分が考えていたよりもずっと大事になりかねないのだという事実を突きつけられて、リグレットは思わずぎゅうと胸元を強く握り締めた。
胸底が、じくじくと、痛い。
決して厳しくはない、だけれど、確実に真実を突きつけてくる言葉と真っ直ぐに向けられた瞳に、それらは警告では済まされない、実際起こり得る事なのだとはっきりと理解してしまい、じわ、と目蓋の淵から水分が染み込んでくる。
だめ、と慌てて手のひらで目元を押さえるけれど、ぽたり、透明な水玉が地面に落ちてしまい、リグレットは慌てて顔を俯かせた。
「ですから、規則を破っては駄目なんですよ」
ヴァニラの言葉に、身体の震えと涙がどうしても止まらない。
自分の気持ちばかり優先させて、他の人にそんなにも迷惑がかかるかなんて、少しも考えていなかった。
自分の行動がどんなに浅はかなものだったのか、今更ながら思い知らせれてしまい、震える唇を噛み締めた。
ノルやグレイペコーは、繰り返し何度も言い聞かせてくれていたのに。
二人はきっとそういう事もわかっていて、わかっていながら、自分の為にあえて言葉を選んでいてくれたのだろう。
考えると、ぱたぱたと次から次へと透明な水玉が地面に落ちて、歪な跡を残していく。
自分が浅はかで守られてばかりの子供だったという事の証明みたいだ。
それが、どうしようもなくみっともなくて、悔しくて、苦しくて、堪らない。
嗚咽が漏れないよう、リグレットが唇を強く噛み締めると、ヴァニラは困ったような、けれど慈しみを持った表情で、そっと目元をハンカチで拭ってくれる。
「あなたの勇気や優しさは、先程の方々の気持ちを救っていたと思います。だからこそ、今回のように、やり方を間違わないようにして欲しいんです。優しいあなたがした事が、他の誰かを傷つけないように」
淡い紫色の生地に白い小花が縁に刺繍してある可愛らしいハンカチは、はちみつ入りのホットミルクのような、ほんのりと甘い香りがする。
なんて優しい匂いなんだろう、と思い、そのせいで余計に込み上げてきた涙に堪えきれず、本当にごめんなさい、早く帰ってちゃんと謝ります、とリグレットは泣きじゃくりながら、何度も謝った。
ひとしきり泣いて落ち着いた時には、すっかり夕暮れで空は赤く染まっていて、リグレットはブーツの踵をとんと地面に当てて確かめると、目の前にある門を開いた。
「本当に体調は大丈夫ですか?」
「はい、全く問題ないです」
後ろから声をかけてきたヴァニラに笑顔で答えると、その隣にいるフィスカスもにこにこと笑みを浮かべて頷いている。
「局内でも飛び抜けた抗体値の高さだもんね」
フィスカスに連れられて三区の医師に診て貰った時も、身体に何の異常が出ていない事に、随分と驚かれてしまった程だ。
ヴァニラはその事に呆れたように息を吐き出してから、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「ですが、念の為に帰ったら必ずグラウカ医師に診て貰って下さい」
「副局長とグレイペコーが速攻で連れて行きそうだけどね」
その前にお説教かな、とフィスカスがどこか楽しそうに笑うので、めいっぱい怒られてきます、とリグレットが返せば、予想外の返答だったのだろうか、目をぱちぱちと瞬かせると、困ったように眉を下げて笑ってキナコの頭を撫でていた。
「よしよし、リグレットちゃんに何かあったらすぐ戻ってくるんだぞ」
「お願いしますね」
フィスカスとヴァニラの二人に頭を撫でられながらそう言われたキナコは、任せて、と言わんばかりにふんふんと鼻を鳴らしている。
少し不安に思っていた帰り道も、キナコが一緒ならば少しも怖くはない。
リグレットは泣いて腫れぼったい顔のまま笑って、「本当にありがとうございます。帰りますね」と二人に頭を下げ、森へと続く門の向こうへと足を踏み入れた。
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