第19話 どうかこの小指に白詰草を
リグレットが一区に帰ってきた時、森の入り口から少し離れた伝言局の裏口にはグレイペコーとノルが待っていて、「ばか、こんなに心配かけて!」と言うなりぎゅうぎゅうと抱き締めたのはグレイペコーで、ノルは今までにない程に不機嫌そうな顔をして、すぐにグラウカの元へと連れて行くよう促していた。
駆け込んだ医務室では、簡単な身体検査と問診などを行なっていて、その間もグレイペコーは心配そうに付き添っていたが、こうして検査の結果を待つ今でさえ、リグレットは全く体調が悪化する気配もない。
抗体値が高過ぎる、と周囲から言われてはいるものの、やはりここまで何の異常も現れないのは、よくよく考えてみたら物凄くおかしい事なのではあるまいか……、使い古されているせいか、少し重心を動かすだけでカタンカタンと音を立てる椅子に座りながらリグレットが不安になっていると、グラウカは検査結果を見て安堵したように頷いている。
「うん、大丈夫だ。問題ないよ」
隣でグラウカの言葉を聞いていたグレイペコーは、心底安心しきった顔をして、良かった、と胸を撫で下ろしていた。
帰ってきたばかりの時に触れた手や服が随分と冷えていたので、それだけ長い時間ずっと心配しながら外で待っていてくれたのだろう。
ノルも不機嫌そうな顔をしてはいたが、何も言わずに医務室へと連れて行くよう促していた所をみるに、同じように心配をしてくれていたに違いない。
一体、どれだけ迷惑をかけてしまったのか。
リグレットは申し訳なさを感じながら、診療時間外なのにごめんなさい、とグラウカへと頭を下げた。
医務室を開けている時間ではないというのに、快く残ってこうして診察をしてくれたグラウカは、いつものようにのんびりと笑ってくれている。
「いやいや、リグレットに何もなくて良かったよ」
「本当だよ。もう、心臓が止まるかと思ったんだから」
グレイペコーはそう言って、泣き過ぎた事で腫れてしまったリグレットの頬へ水で濡らしたハンカチをそっと押し当てた。
乾いて熱を帯びていた皮膚に、冷たいハンカチが触れると、ひりひりと痛んで仕方がない。
思わず顔を顰めると、グレイペコーはハンカチを下ろして一度顔を俯かせ、リグレットの名前を呼んだ。
そのまましっかりと眼を合わせて、両手をぎゅうと握り締められる。
それは、自分が何か悪い事をしてしまった時に言い聞かせる為の仕草だ、と気付いて、リグレットは背筋を伸ばして唇を引き結んだ。
「リグレット。お願いだから、二度とこんな事をしないで。本当に……、本当に、心配したんだよ」
絞り出すような声でそう言ったグレイペコーは、悲痛そうに歪めた顔を次第に俯かせてしまう。
グレイペコーはいつもなら感情を露わにする方ではなく、自分をありのままに見せるのが苦手で、そうした感情に振り回されるのを怖がっている。
それをよく知っているので、リグレットも無理には聞き出したりはしないし、したいとも思わない。
そして、こうしてはっきりと感情を露わにしている時は、それだけ強い感情が湧き出てしまっているのだろうという事も理解しているので、リグレットは申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。
「心配かけて、ごめんなさい。こういう時は絶対にペコーに相談する」
「約束だよ」
「うん」
揺れる赤い瞳をしっかりと見つめて頷くと、グレイペコーは安心したように笑って、いつものように額を骨に沿って撫でてくれる。
その優しい手のひらの重みと、馴染み深い茉莉花の香りに安心して口元を緩めたリグレットは、はたと周囲を見回した。
苦い消毒液の匂いで満ちている医務室は狭いけれど、今はいつもより人がいるせいか、いなくなった時も気付けなかったのだろうか。
「ねえ、ノルは?」
「残った仕事を片付けてくるって言ってたよ」
自分のせいで仕事を中断させてしまっていたり、そのせいで具合を悪くさせてしまっていないか不安になって、ノルにもちゃんと謝ってくる、とリグレットが言って立ち上がると、グレイペコーは心配そうにしながらも頷いていた。
***
「勝手な事をして、ごめんなさい」
局長室で仕事をしていたノルに、ヴァニラに言われた事を踏まえてリグレットは謝罪し、深々と頭を下げた。
今回の事は身体に凄く負担がかかる事は勿論、自分はそれで良くても、伝言局の皆は場合によっては規則違反で国から何らかの処分を下されてしまうかもしれない事。
「私、そういう事までちゃんと考えてなくて……、本当に、ごめんなさい」
もう二度としない、ともう一度頭を下げるけれど、ノルは腕を組んだまま何も言わずにいるので、リグレットはおずおずと彼の顔色を窺ってしまう。
彼は不機嫌そうに眉を顰めて考え込んでいるようだったが、暫くするとぽつりと呟いた。
「……、成程、そういう言い方の方が効果があるのか……」
心底納得出来ない、とでも言いたげな顔をしているので、リグレットが不思議に思って首を傾げると、何でもない、とくたびれたように息を吐き出している。
もっと怒られるとばかり思っていたので、少し拍子抜けしてしまうが、彼の様子は想像よりもずっと落ち着いていて、それが何だか余計に罪悪感を湧き上がらせてくるようだ、とリグレットは思う。
体調が悪いのだろうか、とも考えていたが、顔色は然程悪くないようだし……。じっとリグレットが見つけている事に気がついたノルは、緩やかに瞬きを繰り返して、また一つ溜息を吐き出している。
「それだけ泣き腫らした顔をしてるなら、十分わかっているんだろう。なら、もういい」
そう言って、彼はまた机の上に置かれた書類に目を通していた。
彼が言うように、ヴァニラ達の前で散々泣いてしまったからか、まだ頬はぼんやりと熱を持つように腫れている。
泣き言は事あるごとに言ってしまいがちだけれど、人前ではっきりと泣いたのは、子供の頃以来だ。
もう十六歳だというのに、わんわんと泣きじゃくってしまったのが今更恥ずかしくなって俯いて、もう一度だけごめんなさいと謝ると、リグレットは慌てて部屋の入り口へと足を向けた。
腫れぼったい頰を押さえながらドアノブに触れようとした瞬間、名前を呼ばれて、リグレットは振り返る。
ノルは透き通る金色の瞳を向けて、真っ直ぐに見つめている。
「ただ、自分の命だけは一番に優先しろ」
ノルの言葉に、リグレットはすぐに返事を返せなかった。
今回のように伝言局の人々に迷惑がかかるのなら、絶対にしないと言えただろうが、そうでないなら話は別だ。
もし目の前で誰かが今回のように傷付いた気持ちでいたなら、自分が巻き込まれても絶対に手を伸ばしてしまうだろう。
それが自分にとって大事な人達なら、尚更。
考えて、リグレットはぎゅうと胸元を握り締める。
「……、自分のせいで伝言局の皆が辛い目に合うのは嫌だから、もうしないよ」
「それもあるが、お前自身の事を言ってるんだ」
つまりは、自分を犠牲にするな、という事なのだろう。
けれど、リグレットは彼の言葉に素直に頷く事が出来ずに、ただ瞬きを繰り返して、彼を見つめてしまう。
ノルは昔からずっと自分の体質に悩まされて苦しんでいたから、それだけ皆の身の危険に対して心配しているのではないか。
そんなふうに思えてしまって、そっと視線を足元に向けた。
それは、自分が今回した事に対する気持ちに、少し似ているような気がして。
「あのね、私、自分の命を粗末にしてるとかじゃ、ないよ」
本当だよ、と言って、見つめた足元は土埃でみっともなく汚れている。
「ただ、最後にさよならさえ言えないのはさみしいと思ったから」
お礼を言われたかったわけでも、見返りが欲しかったわけでも、ない。
ただ、それだけが、どうしても心残りだったから。
「そんな時に、誰かに手を握って貰えたり、優しくして欲しい、って思うから。だから、私も目の前にいる人が辛かったり淋しい気持ちになった時は、自分が出来る限りの事がしたいと思ったの」
けど、それもだめなのかな、と思いながら視線を持ち上げると、ノルは額を押さえて顔を俯かせている。
指の隙間から見える金の瞳は、以前ブルーブロッサムの森を見ていた時のように冷え切って、いて。
そこに明確な拒絶がある事を感じ取ったリグレットは、ふるりと身体を振るわせ、動けなくなってしまう。
「まともに生きられない人間からしてみたら、そんな事、考えもしない」
こっちは生きていく事で精一杯なんだよ、と吐き捨てるように言われて、部屋の中はしんと静まり返っている。
彼が普段、どれだけの痛みを負っているのかを、リグレットはずっと側で見ていたわけではない。
グレイペコーやグラウカのように、ずっと彼に付き添っていたなら、きっとわかっているのだろうけれど、周囲から見えないように、知られないように、隠されていたからだ。
それだけ彼の痛みは大きくて耐え難いもので、あって、幼いリグレットには恐ろしく感じられるかもしれない、と周囲には思われていたのだろう。
リグレットはくしゃりと顔を歪ませて、俯いた先にスカートの裾が見えて、思わずぎゅうと握り締めてしまった。
子供の頃から変わらない、不安になった時に身体のどこかを握り締めてしまう、癖。
「いつも、ノルは辛い事を辛いって言ってくれないから、私には、ノルが思ってる事がわからないよ……」
口を開いて、言葉を発しているのに、まるで自分ではないように感じながら、それでも、リグレットは震えた声で、言葉を続ける。
「だから、少しずつでいいから、そうやって思ってる事を教えて欲しいって、そう思うのは、だめ?」
彼が拒絶をするのは、それが踏み込んで欲しくない場所だから、なのだろう。
絶対に自分を近づかせない何かがあって、その先には決して踏み込ませない。
柔らかで脆くて、崩れやすい何かがそこにあって、触れる事を躊躇ってしまう。
だって、否定されるのは、拒絶されるのは、どうしたって、怖い。
だけど、その怖さも苦しさも受け入れていかなければ、きっと彼はこの先へは入れてくれない。
「同じ気持ちになれないのは、わかってる。けど、わからないままだったら、ノルが辛い時に気付いてあげられないかもしれない。私は、その時になって、後悔したくない」
だから、少しずつでいいから、教えて欲しいの。
そう言ってじっと見つめているけれど、彼は決して顔を上げてはくれない。
悲しくなって、ぎゅうと胸元を握り締めて、地面を見つめる。
でも、どんなに傷付いたとしても、その傷さえ、自分の大切なものなのだと思えるように。
そう、なりたいから。
リグレットが口を開こうとしたした瞬間、ノルは深く長く息を吐き出して。いて。
部屋の中に、ノルの静かな声がぽつりぽつりと落ちている。
「規則を破らないこと、無茶をしないこと、勝手に突っ走らないこと、人の話は最後まで聞くこと」
「……う、ん?」
彼の言葉を上手く飲み込めなくて、首を傾げて顔を覗き込むと、ゆっくりと瞬きを繰り返していた金色の眼が真っ直ぐに向けられている。
「それが約束出来るなら、考えておく」
その眼は、いつもよりずっと柔らかに細められていて。
きっと、彼の痛みを同じようには理解は出来ない。
彼もそれを理解して欲しいとは、思っていないのかもしれない。
それでも、その内側に、ほんの少しだけ入れてくれたような気がして、リグレットはふわりと笑みを浮かべた。
「うん、ありがとう」
約束ね、と彼の側に駆け寄って小指を差し出すと、それには触れずに、ぞんざいに頭を撫でられる。
思わず声を零して笑うと、彼は困ったように微かに笑っていた。
***
後日、街中を歩いていると、リグレットは例の男性を見かけていた。
あの日の翌日、ヴァニラが一区に訪れた際、男性の母親は亡くなったと聞いている。
母親は何度も何度もあのカードに書かれた文字を読んでいた、きっと感謝していたと思う、とあの日対応してくれた女性は教えてくれたという。
母親にカードを届けたのは公には出来ない事なので、女性は兄である男性に、最後に言葉はちゃんと届けられたよ、とカードに書いて伝えたらしい。
自分のやった事が本当に良かったのか、あの日のノルの言葉を思い出すと、よくわからなくなってしまう、とリグレットは思う。
ぞんざいに頭を撫でてくれた手のひらの感触は、だけど、優しかった。
理解は出来なくとも、信じてみたいのだ、と、そう言われているようだったから。
だから、きっと迷ってはいけないのだ、とリグレットは思って、足を踏み出す。
男性はリグレットに気がつくと、視線を合わせてじっと見つめているので、ぱちぱちと瞬きをしたリグレットは、慌ててぺこりと頭を下げた。
あの日、最後に彼の言葉は届けられたけれど、今、彼は何を思うのだろう。
いつか、さよならを言えた時、自分は一体、何を思うのだろうか。
リグレットが顔を上げると、男性は、ふ、と柔らかに目を細めて、小さく頭を下げている。
困ったように浮かべたその笑顔は少し淋しそうで、だけど、安心しきったような、そんなふうに見えて、いて。
リグレットは自然と柔らかな笑みを返して、また足を踏み出していた。
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