第5話 消毒液の中に浸した想い
受付業務が始まった伝言局の中は人が多く、あっという間に騒がしくなる。
一区の街中にも投函用の箱は幾つか用意されているが、メッセージカードを買い求めるついでに伝言局へ直接持ち込む者の方が圧倒的に多い。
国内で唯一の連絡手段というだけあって、メッセージカードは安価で、パンを買うよりもずっと手に入りやすく、買い求める客達は年齢も服装も様々だ。
受付の局員達はにこやかに笑顔を浮かべながらも手を止めず、利用客と話をしながら次々と業務をこなしていて、とてもではないが自分にはあんなふうに出来そうにない、とリグレットはその様子を横目で眺めながらそそくさと奥へと足を向けた。
少しばかり静けさを取り戻したそこは、リグレットの背より少し高いくらいの棚がずらりと並び、局員達はその棚に向き合うようにして立っていて、手元にある大量のメッセージカードをせっせと仕分けしている。
一番奥にあるカウンターに行くと、年配の女性局員が迎えてくれて、リグレットは腰に下げている鞄の中にぱんぱんに詰め込んだ革製のカードケースを全部取り出し、数を確認しながら机の上へと並べて置いた。
女性局員はケースを確認して手元に置いた紙に数を書き込みチェックマークを入れると、「はい、今日もどうもね」と笑顔を浮かべて預かってくれる。
カードケースの中に入っているメッセージカードは二区の伝言局から受け取ってきたもので、既に一区だけのものに仕分けられている。
そこから一区に住む人々へ届ける為、今から細かく仕分けされるのだ。
自分が運んできたものがこうしてちゃんと誰かの元へと届けられるのだ、とそこで少しばかり実感が湧いてきて、リグレットはそっと息を吐き出した。
まだ働いてから僅かな月日しか経っていない自分に出来る事は少ないけれど、出来る事が増えていくと自信に繋がっていくし、何より嬉しいのだ。
抗体持ちが強制的に伝言局に連れて行かれて労働を強いられる事は、国民の間でも賛否両論で、稀に局員達にも憐れむ者もいなくはないが、リグレットはあまり気にはしていない。
自分に出来る事があるのなら、それはきっと、何か意味のある事なのだ、と。
そう、思うから。
一番重要な仕事を終え、軽くなった足取りでリグレットが向かったのは、伝言局の中でも局長室と同じように奥まった場所にある、医務室である。
扉が白いので誰でも入れる場所ではあるが、一般の局員達が此処を訪れるのはごく稀な事で、それは大抵が具合が悪くなったりだとか怪我をした時くらいで、この場所を主に訪れるの週に一度抗体検査を行う特殊配達員ばかりだからだ。
医務室は診察をする場所の他に、カーテンで区切られた場所にベッドが二つ設置されている。
診察用の椅子の前に置かれた机には、白髪頭の男性が背中を丸めて何やら書き物をしているらしい。
リグレットはその背中に元気よく挨拶を投げかける。
「グラウカ先生、おはようございます」
「ああ、おはよう」
そう言ってのんびりと振り返ったのは六、七十歳ほどの男性で、後ろに撫で付けるようにした白髪頭、糊のきいた白衣、といかにも医者といった風貌だが、垂れた目尻とそこに刻まれた深い皺が、彼の人となりを表しているようだ。
銀縁の丸い眼鏡を指先で押し上げると、はは、と笑い声を零している。
「その顔、さては副局長さんに怒られたな」
何でバレてるんですか、とリグレットが口を尖らせると、年の功ってやつかねえ、と彼はのんびりと笑いながら診察机の前に置かれた椅子へと手を向けた。
木製のその椅子は使い古されていて、腰をかけると、カタン、カタン、と音を鳴らして少し傾いている。
「それで、今日はどうしたんだい?」
「抗体検査してこいってノルに言われました。お願いします」
「はいはい、ちょっと待ってね」
そう言うと、グラウカは金属製のトレイを手に、後ろにある棚からてきぱきと色々なものを乗せていく。
消毒液、注射器、鮮やかな青い液体が入った瓶……、抗体検査の為に使う様々な器具を持ったグラウカが診察机に戻ると、リグレットは思わず胸元のリボンをぎゅうと握ってしまう。
大きく息を吸い込んで吐き出し、袖を捲って診察机に腕を乗せると、血管を浮き上がらせる為の駆血帯を腕に巻かれ、ひやりとする消毒液を浸した綿で、肘の内側を丁寧に拭かれていく。
そうしていよいよ近づいてくるのは、ぎらりと光る注射針。
それを見るなり、リグレットの胸はばくばくと鼓動が早まり、指先はふるりと震えた。
見れば余計に痛く感じられるとわかっているのに、どうしても目が逸せなくて、リグレットはいつも針が刺される瞬間もじっと見つめてしまう。
少しちくっとするよ、と言われて、針が皮膚に刺さった瞬間、言われた通りにちくりと痛みが走り、いたい、と思わず口にすると、グラウカは困ったように笑っている。
注射器に満たされていく血液は黒っぽく、此処へ入ったばかりの頃は、それってちゃんと大丈夫な色なんですか、と何度も聞いてはグラウカを困らせたものだ。
そうして採血が終わると、グラウカは丁寧に絆創膏を貼ってくれた。
「はい、おしまいだよ。よく頑張ったね」
頑張った子には美味しいキャンディをあげよう、と手のひらに転がされたのは可愛らしい包み紙で包装されてある、薄いピンク色の飴玉だ。
綺麗に透き通っていて、口に入れるとほんのり甘い。
苺かな? 林檎かも?
ほの甘いその味の正体が何なのかはわからないけれど、どこか懐かしい味がして、リグレットは思わず頰を緩ませた。
グラウカはその間に採取した血液を試験管のような細長い試験管のような検査容器へ入れると、そこへ丁寧に試薬を混ぜた。
混ぜ終えた容器の上へ頑丈そうな銀色の蓋を乗せて閉めると、中は黒っぽい赤色をしていたが、次第に鮮やかな赤へと変わり、やがてうっすらと青みを含んだ色へと変化していく。
蓋の上部には小さな針と目盛りが付いていて、かたかたと微かな音を鳴らしながら数値が変化していくのがわかる。
その様子を眺めながら、リグレットは今朝の事を思い出し、ぽつりと呟いた。
「先生、今日ノル調子が悪いみたいなんです」
病気がちだったノルを長年診てきたのはグラウカで、彼の身体の状態を誰よりも知っている。
今でこそ自身の体質に振り回される前に対処出来るようになったので落ち着いているものの、酷い時にはのたうち回る程の痛みを伴う為に、薬で無理矢理深く眠らせる事さえあったという。
グレイペコーと育ての親が上手く誤魔化していた為に、リグレットは直接そういった姿を見る事はなかったけれど、目元や頰が流した涙で腫れ上がり、ぐったりした様子で眠っていた幼い頃のノルの姿は、今思い出しても胸が痛む。
だからこそ問いかけると、やはりグラウカも理解していたらしく、困ったように笑っていて。
「うん、今朝は顔色が悪かったからね。追加で薬を渡しておいたから大丈夫だよ」
「もっと良くなる方法ってないんですか?」
根本的に良くなる方法があるのなら、ノルが毎日沢山の薬を服用する事も、様子を見ながら睡眠を取らなければならないような事も、無理をして痛みに苦しまなくても済むのに、とリグレットは常々思っている。
だって、私は注射針を刺されるくらいでもあんなに怖くて痛くて堪らないのに、ノルはもっとずっと痛い思いをしているとしたら。
それが私だったら、きっと辛くて耐えられなくて、ずっと泣いてばかりで周りを困らせているかもしれない。
そう、思うのだ。
リグレットの質問にグラウカは眼を細め、節くれだった手で眼鏡を押し上げながら、静かに息を吐き出している。
「……あの子のはね、仕方がないんだよ。何せ、根本的に治す為の特効薬がないんだ。気長に付き合っていくしかない」
医者であるが故に、治せない症状と向き合うのも辛いものがあるのだろう。
グラウカの何ともいえない表情に、リグレットは溜息と共に口の中の飴玉をからころと転がした。
「そっかあ。私が頭良かったら、研究者になってすっごい薬をいっぱい作るのになあ」
その言葉を聞いた途端、「あっはっは!」と大きな声を上げて笑うグラウカに、リグレットは羞恥で真っ赤になりながら両手を握り締めて頰を膨らませた。
「もう、先生! そこ笑う所じゃないです!」
ひいひいと笑いを引きずっていたグラウカは、ずれた眼鏡を押し上げて直しながら、深呼吸を繰り返している。
もう、と頬に詰め込んでいた空気を吐き出すと、リグレットは診察机に置かれた検査容器を見た。
うっすらと青かった容器の中は、鮮やかな青色に変化している。
まるで、ブルーブロッサムの花弁のように。
ぼんやりとそれを眺めていると、グラウカは穏やかな声で、リグレットの名前を呼んでいる。
「大丈夫。そうやって気にかけてくれる人がいるというだけで、救われる事もあるものだよ」
優しい笑みを浮かべてそう言ったグラウカに、リグレットはそっと笑みを浮かべて、はい、と頷いた。
本当に、そうであったならいいのに、と思いながら。
***
抗体値と自身のサインを記入した紙を渡すと、リグレットはここへ来た時同様に元気よく医務室を飛び出し、ノルの元へと届けに行った。
再び静けさを取り戻す部屋の中で先程の検査容器を眺め、ふむ、と顎に手をやったグラウカは、どこか呆れたように針と目盛りの示す抗体値を眺めて肩を竦めている。
「それにしても、相変わらず高い数値だなあ」
特殊配達員達は比較的年齢が若い者が抗体値も高い傾向ではあるのだが、リグレットはその中でも異様な程に飛び抜けた数値だ。
思わず息を深く長く吐き出して、数値をカルテに書き込む、グラウカの手がぴたりと止まる。
本当に、おかしいくらいの数値だ、とグラウカは静かに呟く。
「……、あの人にも報告しておかないとな」
困ったように頭の後ろを掻きながら、グラウカは引き出しから一枚のメッセージカードを取り出して、再びペンを動かしていた。
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