第6話 指先は引き金を引けずに

「いっそ森を燃やしたり木を切ったりすれば、いつでも通れるんじゃないかな?」


 一向に進まない報告書を目の前に、リグレットはふと顔を上げて呟いた。

 朝の配達業務を終えた後、特殊配達員達はそれぞれ局内で人員が足りない所に割り振られて仕事をするのだけれど、リグレットが新人で慣れていない事も考慮し、今はまだ簡単な事務仕事を主に行なっている。

 今日に至っては苦手にしている報告書を書く為に時間を取って貰い、グレイペコーがその監督役になっているのだけれど、その報告書が先程から一切文字が増えていない事を、グレイペコーは気づいていながら口にはしない。

 リグレットとしてもきちんとしたいのはやまやまだけれど、一度疑問が浮かぶとどうにも気になってしまって、他の事に手がつけられないのだ。


「ねえ、リグレット。本当に研修やってきた?」


 長机の向かいに座るグレイペコーはそう言って、読んでいた本から視線を上げて深く長く息を吐き出すと、呆れたように頬杖をついた。

 特殊配達員だけが入れる部屋の中は他に人はおらず、遠くで誰かの笑い声が聞こえている。

 伝言局に入る前、研修で一般常識をはじめとして伝言局で必要な知識などをみっちりと叩き込まれるのは、実際経験しているリグレットも理解しているが、コツコツと積み重ねをしないと物事を覚えられないリグレットには、いっぺんにたくさんの事を詰め込まれる研修ははっきり言って相性が悪かったのだ。

 それでも自分なりに勉強を重ねてきたのだけれど、いざ仕事が始まった今、疲れて眠ってしまったり、日々の暮らしをこなす事で精一杯で、なかなか自由な時間が取れず、一向に勉強が進んでいない。

 一体ノルやペコーはどうやっていたのだろう、と不満を漏らすけれど、彼らは元々作りが違うようで、話を真面目に聞いていれば覚えられるという、リグレットには到底信じられない方法で覚えていたらしい。

 頭の出来がいいわけでもなく、要領が良いわけでもない、地道に努力をするしかないリグレットにとって、それらは腹立たしい話でしかないのだが、それはさておき。

 大体、普通の森だって火事になったらどれだけ被害があると思ってるの、と呆れた様子のグレイペコーは、側に置いてある研修用の資料を手に取って、リグレットの目の前にそれを差し出した。

 上部に青い桜の模様が描かれた紙にはびっしりと文字が並んでいて、報告書に悩まされているこの状況で読みたいとは到底思えない。

 そんなリグレットの意思を汲み取ってか、グレイペコーは長い指先で該当の部分をなぞりながら教えてくれる。


「ブルーブロッサムは燃やしたり切ったりすると、異常な量の毒素を放出するの。だから、勝手に森の外へ持ち出す事も禁止されてる。それに、そうする事で余計に森が拡大した例があるから、国も下手に手出し出来ないんだよ」


 以前、国が大掛かりな伐採計画を立てた事もあるらしいが、その時は数十人の死傷者が出たという。

 森の中は中央に行けば行く程に毒素の濃度が強くなり、周囲の桜が散っても中央だけは毒の霧が引かない為に、抗体持ちでさえ入れないなど、未だに謎も多い。

 二区には大きな研究所が設置され、長年研究をしているそうだが、思ったような成果が得られないのが現状だ。


「うーん、ブルーブロッサムも生き物だから、痛い事されて怒ってるのかな?」

「まあ、そうかもね」

「せめて他の連絡手段とか、周りの国と仲良くなって外から行き来出来たらいいのに」


 リグレットの言葉に、グレイペコーは資料を片付けて小さく息を吐き出すと、机の端に置いていた水差しとグラスを二つ手に取って、中へゆっくりと水を注いだ。

 差し出されたグラスを受け取り、見上げたグレイペコーは水を一口飲み込むと、ことりと頭を傾けている。


「他国には離れた場所でも連絡取れたりする物があるらしいけど、あの森の中はそういうのを設置しようにも出来ないだろうし、そもそも他国はうちの国からブルーブロッサムが持ち込まれたらたまったものじゃないから、絶対に協力したりしないと思うよ」


 こんな小さくて貧乏な国じゃ、侵略するならまだしも仲良くするなんて何のメリットもないから、細々と交易するくらいしかしたくないだろうね、と肩を竦めてグレイペコーが言うので、リグレットはふうんと頷いた。

 侵略するとしても、この国にはブルーブロッサムがあるので、手を出したくもないのだろう。

 そうした意味では抑止力としての働きはあるのかもしれないけど、とグレイペコーは言って、また一口、水を飲み込んでいる。


「そっか、色々あるんだね」

「そうだよ。わかったらちゃんと報告書書いてね」


 ようやく質問と休憩を兼ねた会話が終わった、と言わんばかりのグレイペコーにペンを握らされ、リグレットは渋々報告書へと向き直った。

 仕事終わりに提出する日報は決まった通りに書けば良いけれど、これに関しては自身の失態をありのままに書かなければならない。

 かと言って馬鹿正直に書けば仕事を舐めているのかと怒られるので、加減がいまいちよくわからない、とリグレットは思う。

 そんなの定型文に当てはめてささっと書けば良いんだよ、とグレイペコーは言うが、やらかした事例が前代未聞過ぎて、どうにも上手く書けないのだ。

 だって、森の中でうろうろしているうちに迷子になって時間が過ぎてました、なんて、恥ずかしくて書けないし……。

 そう考えながら、口先を尖らせてペンの先端をインク瓶に浸すと、黒いインクがじわりと染み込んでいく。

 その様を見て、ふと先程の検査を思い出してしまい、リグレットは再び顔を上げた。


「ねえ、ペコーは抗体値の変化ってあった?」


 報告書に向かってまだ数分も経っていないのに、再び問いかけを始めたリグレットに呆れたグレイペコーは、肩を竦めて読んでいた本を閉じている。


「今の所は大きな変化はないよ。平均して三十歳半ばから四十歳辺りになると少しずつ減ってくるらしいけど」

「私もそうなるのかな? いつか、森に入れなくなっちゃう?」

「どうだろ。あれだけ抗体値が高かったら、案外減らないかもね」

「そうかな?」


 延々と問いかけを続けてしまいそうな勢いのリグレットを宥めるように、グレイペコーは丸みのある頭をゆっくりと撫でた。


「それはいいとして、そろそろちゃんと報告書書こうね」


 飽きたんでしょ、と長い指先で頰をふにふにと引っ張られるので、言い当てられてしまったリグレットはえへへと笑った。

 既にやる気をなくしていたので、報告書の内容は頭からすっかり消えてしまっている。

 小さく息を吐き出して窓の外を見れば、窓の向こうには鮮やかな青色が広がっているのが見えた。

 誰もが忌避する、異質な青い桜の森。

 でも、と呟いて、鮮やかな青眼を縁取る睫毛の震えを隠すように、リグレットは緩やかに瞳を細める。


「私、森に入れなくなるのは嫌だな」

「……、お母さんとの繋がりがなくなっちゃうから?」


 グレイペコーの言葉に、リグレットは小さく頷いた。

 リグレットと同じように、育ての親に拾われたグレイペコーは孤児院育ちであり、親というものについてあまりよく思っていない。

 中途半端で何処にも属せない半端者、という意味合いでつけられただろう名前が、育ての親によって今の名前に変わるまで、自分にまつわる全ての事を疎んでいたのも、リグレットは知っているし、理解もしている。

 だからこそ、リグレットの境遇を憐れんで、家族として目一杯愛情を持って接してくれる事も。

 自分の名前が後悔を意味するものだと知った時、嫌じゃないの、といつだったかグレイペコーに問いかけられた事があった。

 恨んだ事は一度もない。

 だって、あの時握られた手のひらはあたたかかったし、名残惜しそうに離れた指先も、優しくて悲しげな声も、リグレットはまだ、どうにか憶えていられている。

 だから、不思議とそんなふうには思えなかった。

 その音の響きも嫌いではないし、後悔をしていると言われているなら、それは自分を思っていてくれたからこそなのではないか、と、そう感じるからだ。


「森に入るとね、何だか見守られてるっていうか……、安心するの」


 リグレットの言葉に、グレイペコーは納得してはいないのだろう、複雑な表情を浮かべながらも、小さく頷いてくれている。


「リグレット」


 名前を呼ばれて、リグレットは顔を上げた。

 震える長い睫毛に縁取られた心配そうな赤眼が、真っ直ぐに向けられている。


「リグレット、あそこは危険な場所だよ」


 どんなに望んでも、あの場所にはずっといられない。

 わかっているけれど、リグレットは密やかに、ペンを握る指先に力を込める。


「だから、絶対に深く潜っちゃ駄目」

「わかってるよ」


 わかってる、と呟いて、リグレットは唇を噛み締めた。

 いつの間にかペン先から落ちてしまったインクが紙に染み込んで、歪に広がっている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る