第7話 左手薬指の存在理由
窓の遠くに見えるのは、うっすらと青みを帯びた白い城。
そこから街が広がるようにして発展した区画が第一区と呼ばれるこの場所で、城に近付く程に様々な商店が並び、賑やかさや華やかさを増していく。
農業が盛んで牧歌的な風景の続く二区や、織物の生産に力を入れている三区とも違い、熱がこもるわけでなく、かといって穏やかでもない賑わい方が、まさにこの国とその国民性を物語っているようだ、と窓の向こうを見ていたグレイペコーは静かに思う。
そうでもなければ、青い桜の森に侵食されているこの国で生きていられないのだろう、とも。
リグレットの報告書をどうにか形になる程度には作らせ、完成したらノルへ提出するよう言い聞かせてから、仕分け業務の一部を手伝っていたグレイペコーは、仕分けが済んだカードを丁寧に揃えて集配用の鞄へと詰め込んだ。
時刻は昼で、局員達も流石にこの時間帯になると、昼休みの鐘の音がするのを今か今かと待ち構えているようで、空気も忙しなく落ち着かない。
きっと今頃リグレットも報告書を出し終えて、解放された喜びのままに街中まで走ってご飯を買いに行ってるかもしれない、と思うと、思わず苦笑いが浮かんでしまう。
あまり甘やかさないように、とノルに釘を刺されているものの、呑気で健やかなあの妹を見ていると、どうにも気が緩むのだ。
それでもちゃんとやる事はやっているし、リグレットも時間がかかるだけで少しずつ仕事を覚えている。
森に対する危機感のなさだけは、暫く言い聞かせないといけないだろうけれど。
そう考えながら鞄をきちんと締めて指定された場所へと置いていると、顔馴染みの局員が声をかけてきて、グレイペコーは小さく息を吐き出してから、片手を振った。
年齢の近いその一般局員は受付業務の補助をしている青年で、何故だか気まずそうに頭の後ろを掻いている。
「どうかした?」
「ああ、その、外で女の子がグレイペコーの事を呼んでて……」
困ったような、そっと顔色を伺うような表情に、グレイペコーは彼の気持ちを察して苦笑いを浮かべてしまう。
「わかった。ありがとう」
平気だから、と片手を振れば、心配そうにしながらも頷いていた。
伝言局の入り口を出てすぐ角を曲がった所の通路に足を向けると、そこに立っていたのは淡いグリーンのふわりとしたデザインのワンピースを身に纏い、焦茶色の柔らかそうな髪を二つに結んだ、可愛らしい少女だ。
街中で重そうな荷物を抱えていて、つい手を貸してしまった子だったか、と思い至り、グレイペコーは口内で言葉にならない言葉を転がした。
少女はグレイペコーが来た事を確認すると、ぱっと顔を上げて頬を赤らめ、「あの、良かったらこれを読んで欲しくて……」と言って、淡いグリーンの封筒に入った手紙を差し出している。
ぱちぱちと瞬きを繰り返したグレイペコーは、暫しそれを見つめて、それからゆっくりと少女へと視線を向ける。
答えを待つ少女の顔は、恥ずかしさと緊張感でいっぱいになっているのが見てとれた。
「ごめんね。ボク、男じゃないんだ」
ことり、首を傾けると、にこり、笑顔を浮かべる。
全く想定にないだろうグレイペコーの答えに、目の前の少女の瞳は大きく見開かれた。
え、あ、などと狼狽えて言葉にならない言葉を唇から漏らし、先程とは明らかに違う羞恥で顔を真っ赤にさせた彼女は、慌てて差し出していた手紙を身体の後ろに隠している。
「そ、その、あの……、ご、ごめんなさい!」
つぶらな瞳いっぱいに涙を含ませながらそう言って、駆け出していく少女の後ろ姿を見つめ、グレイペコーは表情を抜け落としたまま、深く長く息を吐き出した。
流石に目の前で泣かれなくて良かった、と考えて、小さく呟く。
「……、まあ、女でもないんだけど」
こればかりはどうしようもない事で、彼女も自分も悪くはない。
そう言い聞かせる事しか、自分には出来ないのだから。
それでも重苦しい気持ちは、最後まで吐き出せないきれない溜息と共に胸の底で澱み続けている。
暫く視線を俯かせて地面を見つめていたグレイペコーは、軽やかな足音が聞こえてぼんやりと頭を持ち上げた。
薄紅色の髪を揺らし、曲がり角から顔を出したリグレットは、嬉しそうに笑って駆け寄ってくる。
「ペコー! お昼ご飯一緒に食べよう?」
そう言ってリグレットが差し出してくれたのは、街中で買ってきたのだろうチーズとハムが挟まれたパンとミルクティーのカップで、健やかなその様子に、グレイペコーは深く長く息を吐き出して頷いた。
いつも天気のいい日に食事をしている中庭へと足を向けると、日向ぼっこをしていた狼達が気がついたらしい、特にキナコは眼を輝かせて尻尾を振り、足元でくるくるとまとわりついてくる。
「もー、これはキナコ達は食べられないんだってば。ていうか、朝にご飯あげたでしょ?」
そんなに食べたらお腹壊しちゃうよ、と笑ったリグレットが耳の後ろの辺りをくしゃくしゃと指先で柔く掻いてやると、嬉しそうに尻尾を揺らしている。
狼達が特殊配達員と共に森の中に入る以外、日々過ごしているのは伝言局の中庭だ。
広くて日当たりがよく、一般の客が入れないようになっているので、狼達も過ごしやすいのだろう、中庭の側を通る際、元気に駆け回っている姿をよく見かけている。
主に世話をしているのは、共に行動をする特殊配達員達ではあるけれど、とても人懐っこく頭がいいので、局員達も通りがかりに頭を撫でていたり、手先の器用な局員が作ってきた手製のボールで遊んでいたりと、皆にも可愛がられている。
「キナコ、ミゾレ、いい子だね」
しゃがみ込んで持っていた荷物を側に置き、ぎゅうと首筋に腕を回して抱きついて鼻先を毛皮に埋めると、独特な獣臭さとは別に草木の匂いが微かにしていて、その健やかさにグレイペコーは思わず頰を緩めてしまう。
狼達は青い桜の森の中でも毒素の影響を受けない、希少な動物だ。
他の動物は勿論、鳥や虫ですら森に近づく事すらしない。
一体何故狼達だけが影響を受けないのかは謎だが、その特異性から国が厳重に管理していて、その中の一部を伝言局に貸し出している。
狼達も流石に森の中を単独で活動をするのは難しいらしく、主に抗体持ちである特殊配達員達の補助をする役目として活躍しているのだ。
薄茶色の毛並みのキナコはグレイペコーが相棒にしていた狼だけれど、今は森に不慣れなリグレットの為に譲っていて、ミゾレと呼ばれる真っ白な狼がグレイペコーの新しい相棒だ。
キナコは少し食いしん坊で、ミゾレは甘えたがり。
そんな違いはあれど、二匹はとても賢く、一度教えた事は二度と忘れはしない。
何より、言葉はなくとも、愛情を与えた分だけ返してこようとする愛くるしさが、グレイペコーはとても気に入っている。
いつもと違う様子に気がついたらしい狼達は、慰めるようにきゅうきゅうと鳴いているので、平気だよ、とそっと呟いて、柔らかな毛並みを撫でると、側においていたミルクティーを手にして一口飲み込んだ。
隣に座ったリグレットは早速パンの入った包みを開けて、ひとつ差し出してくる。
「もしかして、また手紙を貰ってた?」
天気の話でもしているかのような軽やかさでリグレットにそう聞かれ、差し出されたパンを一口齧ったグレイペコーは、ことりと首を傾けた。
ハムもチーズも入っているはずなのに、ちっとも味がしない。
「うーん、貰ってたというか、貰う前にごめんなさいって」
「そっかあ」
しょんぼりした様子のリグレットに、グレイペコーは思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「おかしいよね。ボクの事を好きだって言うのに、男か女かって、自分の想像とは違うと、ごめんって言われるの」
けれどそれはきっと、自分自身にも言える事だろう、とグレイペコーは思う。
誰かに好きになって貰いたくて期待をするのに、自分の想像とは違うとわかると、途端に拒絶してしまう。
そんな自分に、心底うんざりする。
幼い頃から孤児院育ちであり、特に気にされた事はなかったのだけれど、おかしいと言われたのは成長期。
男女どちらの身体特徴が現れない事を不審に思った大人達に連れられて、医師によって詳しく調べられた後に告げられたのは、自分の身体には生殖機能がなく、男女どちらでもない身体をしている、と言う事だった。
孤児院の職員達はこぞって、国外でさえごく稀に生まれる、天使のように特別な性別だとか何とか慰めるように言ってくれていたのだけれど、そのせいで自分は顔も知らない親から不名誉な名をつけられ孤児院に放り込まれたのだ、とグレイペコーはすっかり理解してしまったものだ。
自分の身体が性別として区別が出来ないものだという事に、嫌悪感など抱いた事はなかったけれども、周囲がどう思うかは、また別だ。
その上、ブルーブロッサムの抗体持ちであったので、孤児院では手に余る存在だったのだろう。
その知らせを聞いて国から派遣された局長により、すぐに外へ出して貰えたのはグレイペコーにとって僥倖だった。
外に出してくれた育ての親と、家族であるリグレット。
二人はグレイペコーを性別では区切らず、グレイペコーという個人として見てくれる。
ただ、それだけの事。
それだけの事を、自分も世界も、上手く受け止める事が出来ない。
「ねえ、ペコーはペコーとして見て欲しいって言ってみるのは、だめ?」
グレイペコーの側にしゃがみ込み、そう言ったリグレットは真っ直ぐに透き通った青眼を向けてくる。
「そんな事を言わなくても、理解して欲しいんだよ」
「でも、そう言ってみたら、理解したいって思ってくれる人がいるかもしれないよ?」
うーん、と悩んでみるものの、そんな事は想像すらつかない。
そもそも自分を偽りなくありのままに見せるのが苦手なのは、孤児院の頃からだ。
誰かの世話をしていればよく見られ、いつも笑っていれば笑いかけられる。
そうしてコミュニティの中で外れていないように、何処にも属せない生きものではないように努めてきた。
そうやって偽ってきた事を、あえて引き剥がして、ありのままの自分を特定の誰かに見せるというのは、とてつもない勇気と妥協と諦念と……、あとどれ程の我慢が必要なのだろう。
何て途方もない事だろうか、と思い知らされる。
本当に、途方もない。
「ボクにはリグレットとあの人がいるから、いいよ」
あとお前たちもね、と狼達を撫でると、リグレットは少し淋しげな顔で俯いている。
自分と同じ、酷い名前を、後悔を意味する名をつけられてしまった、かわいい妹。
リグレットは名前を変えたいと思わないの、と問いかけた時、彼女はいつも笑顔で首を振る。
この名前は、私とお母さんを繋ぐ唯一だから、と言って。
そんな風に、自分は絶対になれない。
その事に傷ついていてもそうして笑顔を作ろうとしてしまうのが、時々とてつもなく嫌になる。
もっと傷付いた顔をしていてくれれば、彼女も自分と同じなのだ、と安堵出来たのに。
この世界で一人きりの存在ではないのだ、と。
そう、思えるのに。
自分勝手な傲慢で醜い考えに、グレイペコーは吐き気さえ感じて、抱えていた膝に頰を押し付けた。
どくどくと自身の鼓動の音が内耳に響いてうんざりしていると、狼達がきゅうきゅうと鳴いて手の甲に濡れた鼻先を押し付けてくる。
困ったように笑みを浮かべて狼達を撫でてやると、額にひたりと手のひらの感触がする。
視線を上げれば、悲しそうな顔をしたリグレットが、ゆっくりと骨に沿って頭を撫でていて。
「慰めてくれてるの?」
「いつもペコーはそうしてくれるから」
私が元気がない時はそうしてくれるでしょう、と言って笑うリグレットに、グレイペコーは吐息混じりに笑って、ありがと、と小さく呟いていた。
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