第8話 ホリゾントに青を映す

 腰にしっかりとベルトを巻き、身体と鞄が固定されて動かない事を確認したグレイペコーは、ブーツの爪先を地面にとんと当てた。

 午後の業務が始まった伝言局の中庭は静かで、遠くで誰かの笑い声が響いている。

 リグレットは運んでいた備品の入った箱を足元に置くと、鼻をふすふすと動かして近寄ってくるキナコを撫でて、グレイペコーを見上げた。

 グレイペコーはいつもと変わらない制服姿だが、片手には銀色に鈍く光る細身のハンマーを持っている。

 頭の部分は透明になっていて白い小花を散らしたような透かし模様が入っていて、柄の部分には細かな草花が彫られているものだけれど、かなりの重量があり、リグレットがそれを持ちながら歩こうとしても、一分も保たない程だ。

 各区画には速達業務を扱う特殊配達員が必ず一人配属されていて、主に国の機密文書を取り扱い、通常の半分程の速さで各区画へと移動する。

 その性質上、速達業務を行う特殊配達員達は通常の研修とは別に特別な訓練を受け、万が一の護身用に武器の使用を許可されて各々持ち歩いているが、重いハンマーを持ちながら森の中を軽やかに走り抜ける事が出来るのは、間違いなくグレイペコーだけだろう、とリグレットは思う。

 ナイフとかはちまちましてて性に合わないから、と本人はけろりとした顔をして言っていたので、至って問題はないのだろうけれど。

 リグレットの視線に気がついたグレイペコーは、赤い眼を柔らかく細めると、リグレットの頭を骨に沿って撫でている。


「今日は三区?」

「うん」

「見送りに行ってもいい?」

「いいよ。ありがと」


 おいで、と声をかけているのは真っ白の毛並みをした狼——ミゾレで、嬉しそうにふさふさの尻尾を揺らしてグレイペコーの足元に擦り寄っている。

 リグレットはキナコを連れて足元に置いてあった備品の入っている箱を抱え直し、グレイペコー達と一緒に中庭から裏口へ続く通路へと足を向けた。


「今から行くのか」


 のんびり通路を歩いている不意にそう声をかけられ、振り返る。

 視線を向けた先には書類を手にしたノルがいて、リグレットの側にいた筈のキナコとミゾレはすぐに尻尾を振って彼の足元へと駆け寄っていってしまった。

 新人であるのは確かなのだけれど、ここ最近ずっとご飯をあげて、一緒に配達している相棒であるはずなのに、あまりにも簡単に他の人の所へ行ってしまうキナコに、思わずリグレットは口先を尖らせる。

 不満を露わにしていると、グレイペコーが帽子越しに頭を撫でながら、「ノルが見送りをしてくれるなんて珍しいね」と笑みを浮かべた。

 ばつの悪そうな顔をして顔を背けたノルは、足元にまとわりついているキナコ達を撫でていて、そんな彼にグレイペコーはくすくすと声を零して笑っている。


「なに、照れてるの? ノルも案外かわいい所あるよね」

「えっ、そうなの?」


 あまりに変化が見られない様子に、リグレットが驚いて顔を覗き込もうとすると、ノルは「うるさい」と言って手で追い払うので、思わず頰を膨らませてしまう。

 年上の女性職員やグレイペコー達はかわいいと言っているけれど、リグレットにはいまいちよくわからない。

 ノルは面倒そうにしているだけに見えるし、全然かわいくないと思うのだけど、とリグレットが不満を漏らせば、もうちょっと大人になればわかるかもね、とグレイペコーは楽しそうに笑っている。


「というか、いい加減に狼達にそのしょうもない名前をつけるのを止めたらどうなんだ」


 話を逸らすように咳払いをしてそう言ったノルに、リグレットはぱちぱちと瞬きを繰り返してグレイペコーを見上げた。

 現在一区にいる狼達に名前をつけたのはグレイペコーだと、局長と本人から聞いていたからだ。


「ノルはしょうもないって言うけど、8—6—34、2—9—15、なんて呼びたくないでしょう? 情緒がないし、かわいくないし」


 国では狼を数字で管理していて、賢い彼らはきちんとそれに反応するよう躾けられてはいるが、伝言局にいる狼は大抵、キナコ達のように局内の誰かが勝手に名前を付けてしまっている。

 基本的に一人きりで配達をしなければならない森の中で、唯一頼れる相棒である狼達に愛着が湧いてしまい、親しみを込めて名前をつけてしまうのも仕方がないのではないか、とリグレットは思う。

 それに、グレイペコーは名前について特別思い入れがあり、それに対して確固たる意思を持っているので、余計に許し難いものがあるのかもしれない。

 それを知っているだけに、ノルも強くは言えないのだろう、渋面を浮かべて溜息を吐き出している。


「緊急時に反応しなかったら困るから言ってるんだ」

「大丈夫だよ。ミゾレもキナコもそんな馬鹿じゃないもの」

「私もかわいいからいいと思うけどなあ」

「そういう問題じゃない」


 グレイペコーの反論にリグレットも賛同するように笑って言うと、ノルは眉間に皺を寄せて頭を振った。

 きっと呆れているのだろう、それにしても、と呟いた彼に、なになに、とリグレットとグレイペコーが顔を合わせて不思議そうにしていると、狼達もふんふんと鼻を鳴らしてノルの足元に擦り寄っている。

 グレイペコーが丁寧にブラッシングしたのだろう、二匹共毛並みが整っていて艶があり、ノルが耳の後ろを撫でると気持ち良さそうに目を瞑っている。


「……キナコとミゾレって、かわいい名前か?」

「うん、かわいい」

「絶対かわいい」


 間髪入れずにそう返す二人に、ノルはいまいち納得しきれていない複雑そうな顔で首を捻っていた。


「じゃあ、行ってくるね」


 ブーツの爪先を地面に当て、ハンマーを持ち直したグレイペコーは、そう言って森へと続く裏口の扉を開けた。

 その途端に咽せ返るような深い緑の香りが鼻先をくすぐって、ほう、とリグレットは安堵するように息を吐き出す。

 肌にすっと馴染むような独特の感覚に口元が緩みかけたけれど、隣にいるノルの横顔が視界に入ったその瞬間、リグレットは思わず表情を強張らせてしまった。

 いつも眠たげな金色の瞳は鋭く細められ、ぞくりと寒気を感じる程に冷え切っていて、静かに森の奥深くを見つめている。

 それはまるで、自分の中にある、何か、を、否定されているかのよう、で。

 不安に駆られてぎゅうとスカートの裾を握り締めると、頭の上にぽんと静かな重みが乗っかっていて、のろのろと顔を上げれば、グレイペコーが困ったように笑って頭を撫でてくれている。


「リグレットはちゃんとお仕事頑張るんだよ」


 ミスした分くらい挽回しないとね、と続けた言葉は、リグレットの気持ちを汲み取ったからだろう、緊張感で固まってしまった顔をほぐすように頬を両手で挟んでぐにぐにと上下に揺らされるので、強張っていたリグレットの表情は次第に元の調子を取り戻し、そのうちに声を上げて笑ってしまう。


「ノルもあまり無理しないようにね」

「わかってる」


 そっと見上げたノルは、もう先程のような冷え切った表情を浮かべてはいなかった。

 いつもと変わらない、眠たげで、無愛想な顔。

 彼はリグレットが見つめている事に気がつくと、ふい、と顔を背けている。

 先程のあの一瞬の表情は一体何だったのだろう、と思いつつ、いつもの調子になっているのが何だか酷くほっとして、ほっとした事で腹立たしさも沸々と湧き上がってきていて、リグレットはふくりと頬を膨らませ、態とノルの顔を覗き込んだ。

 ノルは不愉快そうに顔を歪めて鬱陶しそうに手で追い払おうとするので、ますます躍起になって追い込もうとすると、ねえボクもう行くから喧嘩しないでね、と呆れた様子のグレイペコーにやんわり止められてしまう。

 その言葉に深々と溜息を吐き出したノルがぞんざいに頭を撫でてくるので、仕方なく機嫌を直したリグレットは、行ってらっしゃい、と手を振ってグレイペコーを見送った。

 深い緑の香りは、馴染み切ってしまったのだろうか、すっかりと消えてしまっていた。

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