第9話 アネモスは逆さまに笑う

「……、お姫様?」


 淹れたばかりのあたたかい紅茶が入ったカップを両手で持ち、ふう、と息を吹きかけたグレイペコーは、眉を顰めてそう呟いた。

 昼を過ぎた時間帯だからか、三区の伝言局は一区に比べて部屋の外からは騒々しい声が聞こえている。

 少し離れた場所で書類を整理している男は、にこにことにやにやの間を絶妙に混ぜ合わせたような笑みを浮かべていて、その少し垂れた鮮やかな緑色の瞳も軽率そうな跳ねた赤い髪も、どこか信用に足らず憎たらしく思える、とペコーは苦々しく思う。

 柔らかな花の香りがカップから周囲へ広がるけれど、少しも心は晴れそうにない。


「そう。王様が侍女だか庶民だかに手を出して出来た子供が、密かに国内で隠れて暮らしているんじゃないか、って」


 三区の速達担当兼特別配達員達のまとめ役であるフィスカスは、そう言って楽しげに片手に持った書類をひらひらと揺らしている。

 年齢が近く、同じ速達専門の特殊配達員であるからか、それとも初対面でやけに馴れ馴れしくデリカシーの欠けた発言をしていたせいか、仕事は出来るのだが女性にだらしなく、軽率そうなその態度がどうも気に食わなくて、普段温厚なグレイペコーも彼の扱いは他の誰よりも雑になってしまう。

 大体、その噂話からどうしてご落胤とやらがお姫様——女性だと特定出来たのか。

 素直に聞いてみても、「お姫様だったら俺が嬉しいから」などと何の根拠にもならない言葉を吐き出したので、グレイペコーは顔を顰めたまま深々と息を吐き出した。

 この男と真面目に話している方がどうかしていたのだ、と机の上に置かれた焼き菓子を物色し、動物の形をしているクッキーを見つけると、ふ、と唇から柔らかに吐息が漏れる。

 うさぎや猫の形をしたクッキーは可愛らしく、いかにもリグレットが好きそうだ。


「ふうん。三区ではそんな妙な噂が流行っているんだ?」


 言いながらクッキーを一口齧ると、口の中でほろほろと崩れて甘みが広がっていく。

 グレイペコーの言葉に、フィスカスは目を細めるとますます楽しげに頷いていた。


「こういう噂って一区の方がありそうだけど、三区の方が一番人の流れは多いだろ?」


 彼の言う通り、三区は商業区とも呼ばれており、幾つかの大きな工場が建てられていて、一般的な糸より細かい特殊な糸を使った丈夫で質の良い織物を生産し、国外に輸出している。

 街中には織物は勿論、それらを使った衣類や小物などを販売する商店も多く立ち並ぶ為、国内でも特に外からの出入りが多い区画でもある。

 特に桜をモチーフにした柄が人気のようで、ブルーブロッサムを恐れていながらそういったものには好意的なのか、とグレイペコーは呆れてしまうのだけれど、自国のように閉鎖的な小国にはなくてはならない産業だ。

 ただその分、他の区画とは少々治安の悪さが際立つのも三区であり、場所によってはスラムに近い状況に陥っている。

 他の者なら忌避するだろうそういった場所も、フィスカスは何ら気にせず歩き回っているのだろう、彼から聞く噂話は、大抵がそういった治安の良くない場所(というより、そのあたりで働く話好きの女性達から、だろうけれど)で聞き及んだ、出所の疑わしいものばかりだ。


「一区じゃなくて三区の噂、っていうのがもう既に胡散臭いんだけど」

「お膝元じゃない分、言いたい事言えるのも三区ならではじゃないか」

「そうかもしれないけど、大体、そんなの髪色ですぐばれるでしょう」


 この国の王族は、例外なく鮮やかな青の髪色をしているのだ。

 まるで、ブルーブロッサムの花弁のような色に。

 だからこそ誤魔化しようがないのでは、とグレイペコーが言うと、フィスカスは肩を竦めつつ、楽しげに笑っている。


「染めたり隠したりしていればわからないものさ」

「それこそ見た目とか業者当たっていけば辿り着けそう」

「王族から遠い血が混じると変化するかもしれないだろ?」

「だとしても、国が何も対応しないって事は、噂の出所がよろしくないんじゃないか、ってボクは言いたいの」


 何だか話をすればする程、変に言い包められて自分のペースを崩されてしまいそうで、グレイペコーはやや語気を強めると、緩く編まれた三つ編みを鬱陶しげに背中へと払った。

 フィスカスはその言葉にことりと首を傾けて、まあ確かに、と頷くと、腕を組んで笑っている。


「まあ、そう言いたいのもわかるけどさ。例え噂が本当でその子供がクーデターを起こしてたとしても、こんな貧乏で貧弱で危険な森がある国を手に入れたって、何の特にもならないだろうしね」

「だったらなんでそんな噂が立ってるんだか……」


 深々と息を吐き出せば、手にしていたカップの水面が揺れて、小さな波紋が出来ていた。

 それはまるで自身の内面を映し出したようで、思わず視線を逸らせば、興味深そうに細められた緑の眼が見つめているのに気づいてしまい、更に溜息が量産されていく。


「へえ。否定してる割には気になるんだ?」

「今だけは、ちょっとね。あの人……、局長が伝言局を長く離れているのも気にかかるし」


 リグレットとグレイペコーの育ての親——イヴルージュは伝言局の局長でもある。

 誰に何と言われようと言いたい事を言い、やりたい事をやる、派手好きで破天荒な性格をしていて、伝言局の中でも様々な改革をしてきた人物でもあり、ノルに異例の出世をさせたのも彼女の仕業だ。

 表向きは特殊配達員側と一般局員側、どちらの事情も把握出来る人間を育てて後任にしたいという事らしいが、それだけの理由で彼女がそんな事をしたのではないのだろう、とグレイペコーは考えている。

 今回長期の休みを取って伝言局を離れた事も、何かに巻き込まれているか何かに首を突っ込んでいるのではないか、とは思うけれど、家族としてどれだけ共に生活をしていても、あの性格からして彼女がその理由を素直に告げる事はないだろう。

 信用していない、というわけではないのだろうが、それでも未だに子供扱いをされているようで、不完全燃焼のような小さな不満が、身体の中で少しずつ確実に充満していく。


「局長は何て言ってたんだ?」


 大量の荷物を詰め込んだ大きなトランクを持ち、お気に入りの真っ赤な服を着たイヴルージュが鮮やかに笑って旅立って行ったのを思い出し、グレイペコーは大袈裟な程に溜息を吐き出してから、カップを机の上に置いて口を開いた。


「長期のオフ貰って日頃の鬱憤晴らしまくってくる、ってさ」


 その答えに、きょとんと子供のように目を丸くしたフィスカスは、ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、「あははは!」と声を上げて机を叩きながら笑い転げている。

 あの人らしい言い訳じゃないか、とフィスカスは言うが、イヴルージュは言いたい放題やりたい放題の破天荒ぶりで、周囲には敵も多いのだ。

 それでも、伝言局の中では誰もが彼女を慕っているし、それだけ局員達を大切に扱っている。

 勿論、家族として惜しみなく愛情を持って接している事を、グレイペコーも、そしてリグレットもわかっているだろう。

 ——だけど。


「まったく、そんな事で誤魔化せるとでも思ってるのかな……」


 自力で彼女の動向を探ろうとしても、彼女は実に巧妙で、足取りはそう簡単には掴めない。

 何らかの手掛かりがないか、とフィスカスの真偽の定かではない噂話でさえ必要としなければならないのはどうも釈然としないけれど、それ以外に方法がないのだから致し方ない。

 カップを持ち上げて一口含むと、柔らかな花の香りが口内に広がるけれど、まろやかな味は直ぐに喉の奥へと落ちていってしまい、後には苦味が残されるだけ。

 イヴルージュは強い人ではあるけれど、弱い所がないわけでもない。

 陰ながら努力をしているのも、一人で何かを隠して抱え込んでいるのも、グレイペコーはよくよく理解している。

 だけど、そういう時くらい、少しでも頼って欲しいのに。

 頬にかかった髪を指先で払い、でも、のに、は子供の言い訳でしかないな、と内心で自身の気持ちに呆れてしまう。

 苦々しく思いながら視線を感じて顔を上げれば、フィスカスは今までにない程にやにやと楽しげに笑っていて。


「そうは言うけど、あの人も色々あるんでしょうよ。そろそろいい加減、お前も親離れしたら?」

「……は?」


 どうしてこの男はこう、腹立たしい発言ばかりをするのか。

 苛立ちのあまりに手に力が入った途端、みし、とカップが嫌な音を立てていた。

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