第10話 陰鬱な硝子製アリス

 三区に設置された伝言局の長い廊下を、二つに結った長い銀髪を揺らしたヴァニラは、大きな紫色の瞳を瞬かせて静かに歩く。

 とぼけた顔の猫を模した髪飾りを身に付けて歩く姿は、大抵十二、三歳程の子供に見られるようだが、実際にはもう十九になる。

 幼い容姿に対して特殊配達員の紺色の制服を着用しているせいか、時折、訝し気であったり興味本位な視線を感じられる時があるが、ヴァニラはもういい加減慣れきってしまっていた。

 今に至っては、配達から戻ったばかりで酷く疲れているから余計に気にしていられないだけ、なのかもしれないけれど。

 森の中はとても息苦しくて、どうしても慣れそうにない、と頰にかかる髪を払って、ヴァニラは思う。

 特殊配達員の中でも抗体値が低い方だから、というのもあるのだろうが、少しでもペースを乱すだけで、一気に目眩や吐き気、頭痛にまで襲われ、まともに立っていられなくなるのだ。

 そもそも、森の中は白と青で覆われていて、異質で異様なその風景は、はっきり言って気分の良いものではないし、仕事を始めたばかりの頃など、恐ろしさのあまり、一刻も早く外に出たい、と泣き出しそうになるのを必死に堪えていた程である。

 十六歳になった時から強制的に働かされているのも、恐ろしい森の中に入るのも、出来ればやりたくはなかったけれど、その分、家族を養っていくには十分過ぎる程の給与を貰えるのだから、文句は言えない。

 父を亡くし、病気がちな母をゆっくり療養させ、幼い弟妹達に何の不自由なく生活をさせる事が出来ているのも、この仕事があってこそ、だ。

 何の取り柄もない自分に、ただブルーブロッサムの抗体があるというだけで、今の仕事をこなしているだけで、同年代の女性が稼ぐ何倍もの大金が手に入るのだから、文句は言えない。言えるはずも、ない。

 自分にはそれだけで十分なのだから、と考えて、廊下ですれ違う局員達に丁寧にお辞儀をして挨拶をすると、彼らは顔を綻ばせて笑ってくれた。

 強制的に働かされる以上、酷く扱われるのではないかと不安でいっぱいだった頃など嘘のように、此処では皆が優しくしてくれている。

 ヴァニラ自身、入局してから真面目に仕事をしているだけで精一杯だったのだけれど、見た目の幼さからどうも庇護の対象として見られてしまうらしく、交流をしていくにつれて次第にあれこれと世話を焼かれるようになってしまっていたのだ。

 これでも副局長達と然程変わらない年齢なのにね、と肩を竦めるものの、あどけなく見える顔立ちや低い身長、それから、幼い妹達にお揃いにしようとリクエストされる、子供っぽい髪型や髪飾りのせいなのもあるだろう、と苦笑いがつい零れてくる。

 明日はクマさんの髪飾りをつけてみてだとか、お花の方がいいだとか、お団子や三つ編みにしてみようだとか……妹達があれこれ騒いでいたのを思い出し、また喧嘩にならないといいけれど、と考えながら足を向けた先の青い扉の前に立った、ヴァニラは首から下げた鍵を取り出した。

 鍵を開け、ノックを二回してからドアノブをひねると、すう、と息を吸い込む。


「フィスカスさん、戻りまし……」


 た、と言うところで、大きく瞬かせた紫色の瞳で見た光景に、ヴァニラは思わず固まってしまう。

 一区担当で唯一速達業務を行えるグレイぺコーが、フィスカスの顔面を握り潰さん勢いで掴んでいるのだ。

 ことりと首を傾け、静かに息を吐き出すと、扉を閉める。

 一体何だったのだろう、と考えるけれど、幾ら考えた所でわかるはずもないので、再び扉を恐る恐る開ける。

 だが、悲しい事に全く光景は変わっていない。

 完全に理解を放棄したヴァニラは、深く長く息を吐き出して部屋の中に入ると、扉を閉めてこほんと咳払いを、一つ。


「あの、喧嘩するなら中庭の、利用客の方々から絶対に見えない位置でお願いしますね」

「ヴァニラちゃーん。俺、虐められてるんだよ?」

「どの口が言ってるの」


 みし、と音が鳴りそうな程に指に力を込めたグレイペコーは、普段のにこやかな表情など欠片もない程に顔を歪めて怒っている。

 痛い痛い、と騒ぐフィスカスは、そうは言いながらもけらけらと笑っているので、おそらく何か煽るような事を言ってしまったのだろう。

 二人の喧嘩は大抵フィスカスの言動が原因であり、彼が九割以上悪いので、ヴァニラも絶対に助け船を出すような真似はしない。

 そもそも、普段温厚なグレイペコーが苛立ちを露わにするのはフィスカスくらいのもので、それも、元はと言えばフィスカスが初対面で「お前って男女どっちなの」などと聞いてしまったからだと聞いている。

 プライバシーに関わる事をさらっと聞いてしまう辺りがフィスカスの悪い所であり、はっきり言って部下である自分に面倒をかける事だけは止めて欲しい、とヴァニラは重苦しい溜息を吐き出してしまう。

 これでいて、仕事は出来る上にいざという時には頼りになるという所が、本当に不毛過ぎてならない。


「フィスカスさんは前回の報告書に目を通すのが済んでいないようですし、仕分け業務が滞っている所があるので手伝いをしなければいけません。グレイペコーさんも一区に戻るまでちゃんと身体を休ませないといけないのですから、しっかり時間を見て効率的に動きましょう」


 言いながら、毎回こうして喧嘩をしているせいか、流石に慣れつつある自分を褒めてあげたい、とヴァニラは慣れた仕草で部屋の隅に置かれた木製のキャビネットから必要な書類と筆記用具を引き出した。

 二人が喧しく喧嘩をしているのはいつもの事なので放っておくとして、自分の仕事は手早く終わらせてしまわないと、就業時間内に終わらなくなってしまう。

 身体が弱く心配症な母親と、お腹を空かせた妹弟達が家で待っているのだ。

 そう、さっさと仕事を終わらせて、さっさと帰って、さっさと食事の用意をしなければいけないのだから。


「ほうら、見てご覧。三区のお姫様はかわいい上に優秀なんだよ」


 仕事も出来てすっごく可愛い、と褒め称えてくるのを、はいはいどうもありがとうございます、とぞんざいに受け流したヴァニラは、顔色一つ変えずに机に向かって本日の業務連絡を書き出した。

 仕事を始めた頃こそ慣れない賛辞に照れていた事もあったが、今になっては何処かの草むらにでも投げ捨ててしまいたい記憶である。

 ヴァニラの様子を見て心情を察したらしいグレイペコーは、蔑むような眼をフィスカスに向けている。


「これだから、君とまともに会話をするのは嫌なんだよ……」


 いいから真面目に働きなよ、とグレイペコーがフィスカスの顔から手を離し、心底うんざりとした顔で言うのを横目で見て、ヴァニラは同意するように頷いて溜息を吐き出していた。

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