第11話 カプセルカヴィアは飲み込んで

 白い錠剤が、ひとつ、ふたつ。

 震えた手のひらの上に、乗っかって。

 引き攣るような呼吸を繰り返して、喉の奥へと追いやった。

 真っ赤な花弁が、ふたつ、みっつ。

 白い服の上に、落ちている。


「ねえ、わたしたちはにんげんではないのだって」


 誰かが溜息を吐き出しながら、そう言って。

 見つめた鏡越しに、歪む金色の瞳が見える。

 周囲に広がるのは、深い青と白がぐるぐると混ざる異様な世界。

 いつの間にか粉々に割れてしまった鏡の破片が深く突き刺さって、指が、胸が、足が、頭が、鋭く痛い。


「大丈夫、必ずまた会えるから」


 震えて、上手く言えたのかはわからないけれど。

 痛みを堪えて走り出した先は、それはそれは眩くて、水面のように揺れている。



 ***



 うっすらと眼を開くと、視界がゆらゆらと水面のように揺れている。

 寝起き特有の、自身の感覚に薄い膜が張っているような、心地いいのか悪いのか判別のつかない状況は、瞬きを二、三度繰り返すなり、呆気なく消えていってしまった。

 眠る前に服用した薬が効いているので痛みはないものの、微かに動かしただけで、身体全体が酷く怠く、地面に沈み込むかのようにずんと重い。

 けれど、いつだって晴れ渡るようにすっきりとした事もないので、ノルはゆっくりと上体を起こすと、静かに瞬きを繰り返し、縋るようにして右耳に触れた。

 硬質的な感触は耳にはめた銀のイヤーカフで、龍の鱗を模した模様を確かめるようにしてそれをなぞっていく。

 まるで懺悔をしているかのような心地になって、見回した部屋の中は薄暗く、分厚いカーテンはしっかりと閉じられている為に、光が入ってくる事はない。

 ベッド脇に置かれた金色の懐中時計から正しく時間通りに起きれた事を確認すると、ノルは大きく息を吐き出した。

 筋肉が収縮しきって、動く度に軋むようにぎこちない身体が、揺らいで倒れない事を確かめてから、立ち上がる。

 軽く身だしなみを整えてベッドの脇にかけていた紺色の上着を手にすると、薄暗い室内から漏れ出る光を辿って扉を開いた。

 扉の向こうからは視界いっぱいに朝の陽光が差し込んできて、眼を細めながら光に慣れるのを待っていると、聞き慣れた落ち着いた声が話しかけていて。


「ノル、もう平気かい?」


 白んだ視界がゆっくり色を取り戻すと、診察机から顔を上げたグラウカが心配そうに見つめている。

 朝早くから仕事を片付けていた分、始業前に少し休んでいただけなのだが、グラウカにとって、ノルは長年診てきた患者である。

 僅かな変化でさえ見逃してしまうのを恐れるように、彼はいつもそうして心配しているのだ。

 

「はい、大丈夫です」


 ノルは小さく頷いて、そう答えた。


(そう、大丈夫)

(どれ程の痛みに苦しめられて蝕まれて苛まれても、こうして生きていられるだけで、もう、十分過ぎるのだから)


 その様子を見ていたグラウカは何か言いたげにしていたが、小さく頭を振ると、診察机の前に置かれた椅子へと座るよう、ノルを促した。

 毎朝行う身体検査は、幼い頃から頭痛を始めとした症状に悩まされ、病気がちであったノルの習慣だ。

 苦い消毒液の匂いも、冷たい注射針の感触も、清潔さを表したような白で埋め尽くされた部屋の中も、今ではもう生活の一部になっていて、幼い頃あれほど痛い怖い嫌だと泣きじゃくっていたのは、自分ではないように思えてしまう。

 きっと自分は、あの日から別の生きものになってしまったのだろう。

 グラウカが検査の数値を確認しているのをぼんやりと見つめながら、ノルは静かにそう考える。

 あの日、身体の半分を無理矢理に削り落とし、内側から中身を作り変えられたような感覚は、繰り返し夢として現れる。

 何度も何度も擦り切れる程に見てきたせいか、ごちゃごちゃと無造作に並べただけの単語のように、意味を伴わない記録の残骸に成り果ててしまっているのは、長い年月が経った証拠だろう。

 此処で生き、長い時間を過ごしてきた、から。

 それが、いい事なのか、悪い事なのかは、今もまだ、わからないけれど。


「うん、今日は数値が安定してるね」


 顔色もいいし、いつもの薬だけで平気そうだ、と嬉しそうに眼を細めて笑ったグラウカは、部屋の隅にある大きな薬品棚から、澱みなく薬を取り出していく。

 彼はいつもそうやって検査の結果を踏まえて薬を増やしたり、場合によっては変えたりして、その日その日に合ったものを処方するのだ。


「グレイペコーとリグレットがしつこく言うので、早くに休みましたから」


 少し不満気にノルが言うと、グラウカは困ったように、けれどどこか安心したように笑って頷いている。


「はは、リグレットが此処へ来たから、余計に気をつけないといけなくなってしまったね」


 グレイペコーは始めこそ局長から頼まれて世話を焼いていたのだろうが、ノルが酷い痛みに苦しんでいる姿を知っているからか、それとも元々生まれ持った性質からか、今ではもう子供の世話でもしているかのように心配している節がある。

 然程変わらない年齢なのに、視野が広く器用なせいで色々と悩みがちなのもわかっているので、少しずつ体質に対応出来つつある今でも気を遣わせてしまっているのは、ノル自身心苦しいのだけれども。

 そんなグレイペコーとは対照的に、のんびりとしていてお気楽な性格をしているリグレットは、けれど、ここ最近は不調を見抜く事が多くなっていて、それは自分がすっかり気を抜いている証拠かもしれない、とノルは考えて、深く長く息を吐き出した。


「本当、面倒ですよ」

「私としては安心だよ。ノルは放っておくとすぐ無理するから」

「グラウカ先生と局長には、返しきれない程の恩があります。無理をするなと言う方が無理ですよ」


 此処で必要とされる事は、自分にとって、生きている事を許されていると同じ、なのだから。

 ノルの言葉に、グラウカは暫くゆっくり瞬きを繰り返していたが、やがて何かを悼むかのように伏目がちに俯くと、薬品棚から出した薬を丁寧に並べて数を確認している。

 部屋の中はしんとしていて、沈黙が空間を埋め尽くすかのようで、居た堪れなくなったノルは思わず窓の向こうへと視線を向けるけれど、そこからは青い桜の森が見えるだけ。

 やけに鮮やかな青色に嫌気が刺して緩く唇を噛み、右耳にはめたイヤーカフにそっと触れれば、遠くで狼達が鳴く声が聞こえていて。

 きっと、グレイペコーかリグレット、もしくは二人が揃って中庭へ出ていて、狼達に食事を用意してやっているのだろう、とノルは静かに思った。


「リグレットがね、言っていたよ」

「……、何をですか?」


 思考を飛ばしていたせいで、やけにぼんやりとした反応をしてしまったノルは、視線をグラウカに向けて問いかける。

 のんびりとしているくせに、時折突拍子もない事をする幼馴染とも呼べる存在を思い出し、ノルが首を傾げると、グラウカは笑いを抑えきれずにくつくつと声を漏らしている。


「自分がもっと頭が良かったら、ノルの症状を良くする薬をばんばん開発してるのに、ってさ」


 その言葉に、ぱちぱちと子供のように瞬きを繰り返したノルは、思わず口元に手を当てて、顔を後ろへと背けた。

 グラウカの言葉からその様子を見なくともわかってしまい、込み上げてくる可笑しさから肩が震えないように堪えていると、グラウカは「ははは」と楽しそうに笑っていて。

 楽し気な様子は、力無く笑い声を落とした事で、すぐに掻き消されてしまう。


「……本当に、耳の痛い話だ」


 喉の奥から絞り出したような苦しげな言葉が、地面に落ちて、足元に停滞していた。

 此処にいる誰も、悪くはない。

 その筈なのに、何故だか酷く責め立てられているような気持ちになって、ノルは緩やかに頭を振った。


「グラウカ先生には感謝をしています」


 ノルの言葉に、グラウカは静かに指で眼鏡を押し上げて、乾いた笑みを浮かべている。

 その横顔は、昔よりずっと、くたびれて見える。


「……、そう言って貰えると救われる思いだよ」


 グラウカの言葉はただひたすらに、深い懺悔の念が滲んでいた。

 その想いは、自分と彼が共有する後悔から齎されたものだろう、と理解してしまうと、ノルはぎりと手を握り締めていた。

 どんなに悔やんでも、過ぎ去り失われたものが戻ってくる筈もなく、それを繰り返すだけの勇気すら、自分には、ない。

 グラウカは小さく何度も頷いて、慰めるようにノルの肩をぽんと叩くと、困ったように笑っている。


「さ、今日も頑張らないとね」

「はい」


 静かに目蓋を閉じて頷いてから、ノルはゆっくりと顔を上げた。

 眼を開いても、もう、視界が揺れる事はない。

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