第12話 頭上に掲げるミルククラウン

 爪先で地面を蹴って、息を吐き出した。

 うねるような樹木は、周囲に広がる真白の霧によってじっとりと水分を含み、樹皮を暗色へと変化させている。

 地面をくまなく埋め尽くしている花びらは、海よりも空よりも鮮やかな、青。

 その花びらとあちこちに張り巡らされている根っこに足を取られないよう、気をつけて先を進んでいたリグレットは、薄紅色の髪を揺らして顔を上げた。

 毒素を含む霧に包まれ空はうっすらとしか見えず、周囲から伸びている黒い枝は、まるで侵入者を捉えるかのように、四方へ伸ばされている。

 恐ろしくも思えるその枝を、リグレットは注意深く見つめて目当てのものを探し当てると、突然本来の道ではない方向へと足を向けた。

 その行動にすぐさま気がついたらしいキナコは、慌ててリグレットの腰辺りにその頭をぐいぐいと押し付けている。


「キナコ、ごめん。ちょっとだけ」


 ぎゅうと首筋に抱きついて耳の後ろを撫でてやると、キナコはふるふると頭を振っていて、リグレットは困ったように笑ってもう一度ごめんと呟くと、目印である小さなリボンを結んだ枝の先へと足を踏み入れた。

 そこは森の中央に続く方向であり、毒素を含む霧が多く放出されているので、特殊配達員達もわざわざ入り込む場所ではない。

 周囲の桜の花が散った後でも花が落ちる事のない森の中心地は、木々も暗色から白色へと変化をしていき、花の色も更に濃い青へと染め上げている。

 幼い頃にリグレットが捨てられていたのは、森の中央に近い場所だ。

 朧げな記憶の中でも、この樹木の白さと深い青色の花弁だけは、リグレットにも確かに覚えがある。

 そもそも、国が厳重に管理をしている森の中、それも、こんな奥地にまで母と自分が何故入り込めたのか、その理由はリグレットにはわからない。

 お母さんも抗体持ちで、抗体値が高かったのかな。

 だから、誰も近寄れない此処へ連れてきたのかな。

 考えてみても答えが得られるわけではないのだけれど、この森の中に入ると、自然とそんな事を考えてしまうのだ。

 暫く歩いていくと少し開けた場所に出ると、そこには他より一際大きな桜の木が生えている。

 流石にこれ以上奥深くに進むのは良くない、とリグレット自身もわかっているので、この樹木より先には足を踏み入れる事はない。

 だが、ここまで潜っている事を、ノルに知られたなら絶対に怒られるだろうし、グレイペコーは酷く心配するだろう。

 キナコも不安からか、常ならばピンと立てた大きな耳をぺたんと伏せ、ぴすぴすと鼻を鳴らしてリグレットにぴったりとくっついている。

 ゆっくりと近付いた大きな桜の木の根元はうねるように曲がり、ポケットのようになっていて、そこには一つの封筒が差し込んである。

 以前、配達の時にリグレットがこっそりと置いた封筒だ。

 こっそり此処へ来ている事で時間を超過し、怒られてしまった事もあったが、最近は慣れてきた事もあり、少しだけ時間に余裕が出来て、此処を訪れても時間通りに区画を行き来出来るようになっている。

 勿論、悪い事だとわかっているので、誰にも言えない秘密ではあるのだけれど。

 ごめんね、と誰に言っているのかもわからなくなってきた謝罪の言葉を口にして、リグレットは木の根本から封筒をそっと引き抜いた。

 封が空いていないかを確かめるけれど、封筒が湿気を帯びてしんなりとしている以外は、此処へ置いてきた時のまま変わっている様子はない。


「やっぱり、変化なし、かあ……」


 期待してはいけない、とわかっていても、やはりショックは大きい。

 淋しさだとか悲しさだとかやるせなさだとか、言いようのない気持ちが体内にあふれてくるのを感じて、リグレットはその場にしゃがみ込んで膝を抱えた。

 忘れられているのか、それとも此処に来れない事情があるのか、……もしかしたら、病気や事故でもう既に亡くなっているのかもしれない。

 考えたくないけれど、と丸まるように身体を縮こませると、くうくうと鳴いて手のひらに濡れた鼻を押し付けられ、リグレットは顔を上げて困ったように笑った。

 込み上げてくるような感情からキナコの首筋にぎゅうと抱きつけば、獣臭さと草花のような青々とした香りに、早く帰らないと、と強く思ってしまう。

 自分が帰る場所はこの森ではなく、この外側、なのだから。


「……、また、来るね」


 お母さん、と微かに呟いて、リグレットは立ち上がり、すんと鼻を鳴らして目元を押さえると、しっかりと頷いて。

 ずれてしまった帽子を被り直し、元の道へと足を踏み出した。



 ***



 リグレットが立ち去って暫くすると、手紙を置いていた樹木の脇から、ゆらり、一つの影が現れる。

 ちりん、ちりん、と影が動く度に、鈴の音が辺りに響いていて。

 足元まで届きそうな程に長い髪は、鮮やかな青。

 ほっそりとした指先が、樹木の根元に差し込まれた手紙を拾いあげている。

 じっと手紙を見つめる影の、長い服の裾からゆらりと現れたのは、青い毛並みの狼。

 伺うように見上げてくる狼を撫でると、その影は手紙を元の場所へ戻し、ちりんと鈴の音を響かせて、青い桜に溶け込むように静かに消えていった。

 後に残されたのは、鈴の音の波紋だけ。

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