第13話 舞台袖で震える爪先でも
朝の配達を終え、昼休みを過ぎた時刻になると、伝言局は明日配達分のメッセージカードを持ち込む人々が増える為、一際騒がしくなっている。
中でも一番に慌ただしいのは受付窓口であり、そこが落ち着くまでは局員達も気が抜けず、ぴりぴりとした空気が漂っているので、リグレットとしても早く過ぎ去って欲しい時間帯である。
受付業務は人と人とのやり取りなので、必ずと言っていい程に間違いや不備などもあり、それに伴った諍いも、どうしても起こってしまう。
以前、局員に物凄い勢いで捲し立てている女性客を見かけてからというもの、その恐ろしさのあまり、この時間帯になるべく受付窓口には近寄りたくない、というのがリグレットの素直な気持ちだ。
備品の補充の為にやむなく受付カウンターの裏側へと来たリグレットは、騒がしさに怯えつつも指定された棚に備品を運び入れようと、手にしている箱を抱え直した。
カウンターの向こうは、いつもならばまるで黒い波のように人が並んでいるが、何故だか今日は一定の窓口に偏るように集中している。
よく見てみると、一箇所だけ滞っているように見えた窓口は、受付カウンターの一番端で騒ぎ立てている人がいるから避けているだけのようで、また怖い人だったらどうしよう、とリグレットは思わず身を竦めてしまう。
「あの、何かあったんですか?」
様子を見ていたらしい近場の男性局員に問いかけると、困ったような表情を浮かべた局員は、周囲に視線を巡らせてから、声を潜めて教えてくれる。
「それがさ、お客さんが三区にどうしてもカードを届けて欲しいって無理言ってるらしいんだよ」
その言葉に、リグレットは「え、でも、」と言葉を詰まらせてしまった。
区画を行き来する配達は、一日に一度きり。
今日の分の配達は終わっているので、今持ち込まれたカードは明日の配達分に回されるからだ。
「そう。だから副局長まで出て来て貰って断ってるんだけどね。事情があるらしくてなかなか引いてくれなくて」
困ったなあ、と呟いた男性局員にお礼を言い、リグレットはそっとカウンターの向こうに視線を向けた。
人混みの向こう、カウンターを少し外れた所にいるノルが対応しているのは、三十代くらいの男性で、焦りからか、今にも掴み掛かりそうな勢いで必死にノルに訴えかけている。
きっと局員達では対応しきれなくなったのだろう、局長が不在の今、伝言局の全てを任されているのはノルであり、そういった時に対応するのは彼の役目だ。
他の客や局員達も自分達の事に専念をしていても騒ぎが気になるようで、時折視線をちらちらと向けていた。
「無理を言ってるのはわかってます! でも、母に言葉をかけられるのは、これが最後かもしれないんです! お願いします!」
一際大きい声でそう叫ぶように言った男性の言葉に、リグレットは思わずどきりとして身体を強張らせた。
自然とノル達の声がはっきりと聞こえる位置にまで足を向けてしまい、近付く程に、どくどくと鼓動の音が早まっていくのが自分でもわかっていた。
男性の訴えは、母が危篤だという知らせがあり、おそらく今晩が山場だろうという事。だからこそ、最後に自分の言葉を書いたメッセージカードを届けて欲しい、という事だった。
彼の言葉に、リグレットはブルーブロッサムの森の中央、桜の木の根元に置いてきた封筒を思い出し、リグレットは胸元をぎゅうと押さえてしまう。
焦る気持ちからだろう、興奮状態にある男性とは対照的に、ノルはとても落ち着いていて、緩やかに瞬きを繰り返すと、お気持ちはわかりますが、と真っ直ぐに男を見つめている。
その金色の眼は、一切揺らぐ事はない。
「貴方が思う以上に、あの森は危険な場所です。特殊配達員達はあの森に入る度に人体に影響を及ぼす程の毒素に晒され、身体に大きな負担をかけています」
「それはわかっています! だけど、」
尚も引き下がらない男性に、ノルは僅かに眉を寄せると静かに息を吐き出して、口を引き結んだ。
微かな変化なので他人には気付かれないだろうけれど、リグレットにははっきりと、そこに彼の怒りが滲んでいるのを見て取れた。
「危篤の母親に手紙を届ける代わりに、特殊配達員達の命を削れ、というのでしょうか。その為なら、彼らの命を犠牲にしても構わない、と?」
立て続けに突きつけられた言葉に、男はたじろいで、反論の言葉を探すように視線をさまよわせている。
ノルの言葉は、きっと、とても正しい。
正しいからこそ、その言葉は胸に突き刺さるように痛い、とリグレットは思う。
男性が感情のままに言葉にしているのに対し、どこまでも冷静に返すノルの態度は対照的で、それが男性の勢いをどんどんと萎縮させていく。
「私は局長の代理ではありますが、全ての責任を取るべき立場にあり、家族に等しい局員の命を守るのは私の責務です」
言葉を一度切ると、ゆっくりと瞬きをしたノルは、静かに、はっきりと告げた。
「それは、貴方が母親を思うのと同じ事ではありませんか」
その瞬間、男性の瞳は大きく見開かれ、顔が歪んでいってしまう。
悲しみでいっぱいになっていくその表情に、リグレットはまるで自分自身を見ているかのように感じてしまい、指先を震わせた。
どうぞお引き取り下さい、とノルが言うと、泣き出しそうな顔をした男性は、堪えきれない思いのままに、伝言局を飛び出していってしまう。
遠巻きに見ていた人々も暫くの間、息を潜めるようにしていたが、少しずつ時間が経過すると共に、またいつもの様子を取り戻し、騒がしくなっていった。
先程まであった事など、なかったかのように。
男性がいた場所には一枚のカードが残っていて、リグレットはそれを拾い上げると汚れをそっと払い、潰れないよう大切に握り締めていた。
***
騒がしさを取り戻している伝言局の中、男性を対応していたノルは、受付窓口の裏側で数人の局員達と話をしていた。
ノルが出てくるまで男性とやり取りをしていた局員達なのだろう、何度も頭を下げて礼を言っている彼らに、ノルは表情を和らげ、緩く首を振っている。
彼は厳しい所はあるけれど、局員達にはとても優しい事を、リグレットはよく知っている。
先程の男性に言っていた、家族に等しい、という言葉に偽りはなく、それ程に皆を大事に思っている事は、きっと局員の誰もが知っている事だろう、とも。
だからこそ、少しの期待を持ってしまった、のだ。
「ノル。私、三区に行ってくるよ」
局員達が離れていくのを見計らい、リグレットはノルに向かってそう言った。
先程まで冷静さを保っていた彼は、誰が見てもわかる程に不愉快そうに眉を顰めている。
「駄目だ」
近くの壁に凭れるようにして背を預けたノルは、腕を組み、大きく息を吐き出している。
疲れたようにゆっくりと繰り返す瞬きに、リグレットは一瞬怯んで俯くけれど、後ろ手に持っていたカードの感触に気持ちを持ち直す。
「私なら大丈夫だよ。今日は配達行ったけど、森に入ってからもう何時間も経ってるし、森に入って三時間近くなっても、具合悪くなった事ないし」
森の中央に近い場所へ行って区画を行き来しても、今までずっと皆が言うような症状など一度も出た事はなかったのだ。
それに、森の中で捨てられた時でさえ、身体に何の異常も現れなかったと聞いている。
それならば、きっと自分なら大丈夫に違いないという事ではないか、とリグレットは根拠もなく信じきってしまっている。
リグレット、とノルが宥めるように名前を呼んでいても、構わず言葉を続けてしまう程に。
「あの人、お母さんが危ないんでしょう? 最後に自分の言葉を伝えたいって言ってたし、もしこれが最後になっちゃうなら、ちゃんと伝えてあげた方がいいと思う」
おぼろげになっている記憶の中、母からの言葉に、自分は一体何と答えたのだろう。
母は、あの時の事をどう思っているのだろう。
さよならさえ言えなかった事を、今でもずっと、悔やんではいないだろうか。
考えても出てこない答えを、こうして誰かを通す事で、見つけようとしているだけなのかもしれない。
だけど、と手を握り締めるリグレットは、ノルが顔を覆うようにして額に手を当てているのを見て、は、と動きを止めてしまった。
俯いているノルの表情は、よく見えない。
もしかして、具合が悪くなってきているのだろうか。
ノル、と慌てて呼びかけて伸ばした手のひらは、けれど、突然強い力で払われた。
じん、と手が熱さを持って、痛む。
思ってもなかった事に驚いてしまい、顔が上げられない。
彼の顔が、怖くて、見れない。
「たった一人の為に規則を破るのか? そのせいでまた同じ事が起きたらどうする? お前やあの男の我儘の為に、他の特殊配達員達まで危険に晒すつもりか?」
怒気のこもった声に慌てて顔を上げて、リグレットは頭を振った。
金色の瞳が、冷たく向けられている。
まるで、あの時、ブルーブロッサムの森を見ている時のように。
「そ、そんなつもりは……、だって……」
「何度も何度も言わせるな。いい加減にしろ。さっさと仕事に戻れ」
突き放されるような言葉と態度に、視界が水分でいっぱいになって、ゆらゆらと揺れていて、瞬きが出来ない。
ノルの言葉は、きっと、とても正しい。
正しいからこそ、その言葉は胸に突き刺さるように痛い、とリグレットは改めてそう思う。
ごめんなさい、と呟いて、リグレットはゆっくりと背を向けて歩き出した。
一歩、二歩、踏み出していく内に、足は早まり、次第に駆けるように、前へと向かっていく。
ゆらゆらと揺れる視界の先、それが何処に向けられているかなど、どうせ誰もわからないだろう、と思いながら。
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