第48話 刺した跡が痛むのでしょう
本格的にブルーブロッサムの散り際が近づいてくると、伝言局の中はいつも以上に忙しくなる。
国を三つに分断している森の中は、桜の花が散る時期だけ一般人の通行を許可していて、森の中に入れる抗体を持つ唯一の存在である特殊配達員達は、その為の準備に駆り出されているのだ。
森の中では通行の邪魔になるような枝を伐採したり撤去する事さえままならない為、通行に使用出来る広さがある道の確保や、中央付近のような禁止区域の確認、緊急時の対応なども徹底しておかなければならないし、また、期間中に森の警備を担当する軍と協力して、関連資料の作成や森の中の状況報告等も行わなくてはいけない。
だからこそ、そういったいつもとは違う業務が舞い込んできているのである。
配達から戻ってきたリグレットも、ずっと資料や苦手な報告書と睨めっこしている状況だ。
「もうやだ……」
机に突っ伏してそう呟くと、握り締めていた報告書の端がくしゃりと歪む。
このままでは自分までこんなふうに気持ちが折れてしまいそうになる、とリグレットは溜息を吐き出した。
「ボク達しか森の中を把握出来ないんだから、仕方ないでしょう? 特殊配達員がたくさんのお給料を貰えるのは、この為でもあるんだよ」
両手に抱えた資料をどさりと机の上に置いたグレイペコーは、呆れたようにそう言うと、大きく溜息を吐き出していた。
特殊配達員のみ入れる業務室の中は、既に半分が資料や報告書などの紙の山に埋もれていて、部屋の奥にある机に向かって書類に目を通しているのだろうノルの顔さえ、ろくに見えやしない。
「それはそうだけど……、こんなにやる事多いなんて聞いてないよお」
グレイペコーの言い分は尤もだが、それはそれ。頭脳労働に向いていない自分の性質を痛い程に理解しているので、リグレットにとって、これらの仕事は苦痛でしかない。
そもそも、自分がちゃんと役に立てているのかも謎だ、と思わず考えてしまう。
「そうは言うけど、イヴやノルはもっと大変なんだよ?」
「う……」
各種資料全てに目を通し、承認可否を判断し、それらを把握した上で軍の幹部と話し合い、擦り合わせをするのは、局長と副局長である二人が主体となって行われている。各区画でまとめた資料に目を通すだけでも、膨大な量だろう。
グレイペコーの言葉に、リグレットはなけなしのやる気をどうにか掻き集め、皺の寄ってしまった紙の端を丁寧に伸ばし、再び報告書へと向き直った。
「ご褒美に美味しいお菓子を用意してるあげるから、頑張ろうね」
「はあい」
頑張るのはお菓子に釣られたからではないけれど、と誰に言うでもない言い訳を内心で拵えていると、ガタン、と部屋の奥から物音が響いている。
何か物でも落ちたのだろうか、と顔を上げると、グレイペコーがぽつりと呟いている。
「……、ノル?」
グレイペコーの視線を辿って顔を向けると、部屋の奥で机に向かっていたノルが、両手で額を押さえていた。
押えている、というよりは、皮膚に爪を食い込ませている——ように、見える。
あまりの事に呆然としてしまい、リグレットが動けずにいると、その様子を見たグレイペコーは眉を顰め、すぐに席を立って彼に駆け寄っていく。
「ノル、医務室に行こう。顔色が悪い」
グレイペコーの緊迫した表情と突然のノルの異変に、緊急を要する事態なのだとはっきりとわかってしまい、リグレットは足元からざっと血の気が引いてくるようだった。
動揺し、ふらりと席から立ったリグレットに、グレイペコーは少し焦った様子で声をかけていて。
「リグレット、先に医務室に行って先生に伝えて貰える?」
「わ、わかった」
急いで部屋から出ようと扉の前に駆け出すと、ぱん、と乾いた音が部屋の中に響いて、リグレットは思わず身体が竦ませた。
「……ノル、落ち着いて」
低い声でそう言うグレイペコーは、顔を顰めて右腕を押さえている。
ノルが手を振り払おうとして腕が当たってしまったようだけれど、彼は痛みを知っている人だから、誰かを傷つけるような真似は絶対にしない。
それだけ痛みが酷いのかもしれないが、明らかにいつもとは様子が違う。
触れるな、と、呻くように呟いた彼の声は、酷く掠れていた。
息は次第に荒くなり、浅い呼吸を繰り返していて、いつも眠たげな瞳は見開かれ、充血し、此処にいる誰も、何もかも、視界に入れようとしない。
「リグレット、早く先生を呼んできて」
グレイペコーがそう頼んでくるけれど、足が竦んで上手く動けなくなったリグレットは、震え出した両手で胸元を押さえる事しか出来ずにいた。
ばくばくと心臓が鳴り響いていて、身体から飛び出てしまいそうだとすら思う。
まるで言い訳をするかのように頭を振ったリグレットが、「で、でも……」と呟くと、震える息を吐き出したグレイペコーは、思い切り息を吸い込んで、叫ぶように、言う。
「このままだと痛みで暴れ出すかもしれないから、お願い! 早く!」
そこから先の事を、リグレットはよく覚えていなかった。
とにかくグラウカを呼ばなくては、と部屋を飛び出し医務室に駆け込み、ノルの異変について伝え、グラウカが慌てて医務室から飛び出して行くのを見送ったその後は、とにかく、怖くて怖くて仕方がなくって、震えながら廊下の隅で縮こまることしか出来なかった。
なんで、どうして、こんな時に何も出来ないんだろう。どうして少しもこの身体は動こうとしないんだろう。
医師であるグラウカや、ずっとノルの面倒を見てきたグレイペコーと違い、自分は今まで何もしてこなかったから、何も出来ないという事は、わかっている。
わかってはいるけれど、それでも、こんな自分にだって、何か出来る事があるかもしれないのに。
泣く事さえ出来ずに、震える身体を自分で抱き締めるようにぎゅうと丸めていると、頭上から静かに声が落ちてくる。
「リグレット」
くたびれたような声と微かに漂う茉莉花の香りに、グレイペコーだという事は理解出来たけれど、リグレットは微かに肩を揺らす事しか出来ずにいた。
リグレット、ともう一度名前を呼んだグレイペコーは、リグレットの前にしゃがみ込むと、小さく息を吐き出して、そっと頭を撫でていて。
「大きな声を出してごめんね。怖かったよね。もう大丈夫だよ」
神経を刺激しないよう、静かに、ゆっくりと声をかけてくれるグレイペコーに、リグレットはようやくのろのろと顔を上げた。
その拍子に、押し込んでいた気持ちもじわりと溢れてくるようで、目元がじわじわと熱くなっていく。
一体、どれくらい時間が経ったのだろう。
とてつもなく長い時間こうしていたように思えるし、一瞬の事のようにも思える。
グレイペコーが大丈夫だよと声をかけて背中を撫でてくれるので、リグレットはすんと鼻を鳴らして、震える唇を動かした。
「……ノルは? ノルは、大丈夫なの?」
そう言葉を発した瞬間、ぶわ、と目蓋から涙が溢れてくる。
何にも出来ないくせに、涙だけはこんなに簡単に出てくるなんて、と内心で自分を責めるけれど、頬を伝う涙は堰を切ったように止まらなくなってしまい、リグレットは慌てて腕で目元を押さえた。
制服の袖に歪な染みが幾つも出来て、じわじわと広がっていくのが、わかる。
「もう平気だよ。医務室で眠ってる」
少し落ち着いたら様子を見に行こうか、と言われて、リグレットはすんと鼻を鳴らして、小さく頷いた。
***
薄く開いた仕切りカーテンの隙間から、そっと顔を覗かせて中を見ると、明かりを落とした室内に設置されたベッドの上で、静かに眠っているノルが見えた。
本当に寝ているだけなのか疑わしく思える程に、顔色は青白く、寝息さえ静かすぎて聞こえてこないので、リグレットは不安でいっぱいになってしまう。
勿論、グラウカが処置を行ったと聞いているから、きっと大丈夫なのだろうけれど。
名残惜しい気持ちのまま、そっとカーテンを直したリグレットが振り向くと、グラウカは労わるように優しく笑いかけてくれている。
「リグレット、吃驚しただろう。もう大丈夫だから、安心しなさい」
グラウカは極力優しく声をかけてくれるけれど、悔しくて悲しくて、堪らない。
「……、ごめんなさい、何もできなくて」
こんな時に限って、何の役に立てない自分も、震えて隅っこで縮こまってるしか出来ない自分なんて、どっかいなくなって、消えてしまえばいいのに、とリグレットは思う。
すっかり気落ちしたリグレットの様子に、グレイペコーとグラウカの二人は困ったように顔を見合わせている。
「リグレットは先生を呼んできてくれたでしょう。リグレットがいなかったら困ってたよ」
「こういうのは経験がものをいうからね。最初は誰もが動けないものだよ。何度か対処していると、直ぐにどう動けばいいかわかるようになる」
グラウカの言葉に同意するように頷いて、グレイペコーはそっとリグレットの額を骨に沿うように撫でた。
落ち着かせようとしてくれているのがわかるのに、上手く感情が制御出来なくて、リグレットは叱られた子供のように、スカートの裾を握り締めて俯いてしまう。
「ボクが気をつけていればいいって思ってたから……。リグレットにもちゃんと教えておくべきだった。ごめんね」
グレイペコーが悪いわけではないのに、どうしてか謝られてしまって、否定するように頭を振ると、また目蓋の縁から涙が零れそうになって、リグレットは慌ててその場にしゃがみ込んだ。
頭の中がぐちゃぐちゃする。
目の前がゆらゆらする。
折角、少し落ち着いていたのに、と唇を噛み締めると、お茶を淹れてくるから二人も此処で暫く休みなさい、とグラウカは言って、奥の作業室へと足を向けていた。
きっと、気を使ってくれたのだろう。
申し訳なさで押し潰されそうになりながら、リグレットはグレイペコーに促されて、のろのろと診療机の側にある椅子へと腰掛けた。少し傾きがある木製の椅子は、少し重心がずれただけで、かたん、かたん、と音が鳴る。
「ノル、いつもあんなに痛がってたの?」
隣の椅子に腰掛けて背中を撫でてくれているグレイペコーに問いかける。
「今日は特別酷かったと思うよ。いつもは薬で抑えているし、あそこまで酷くはならないんだけど」
あんなに痛がるのは久しぶりだったから、上手く対処出来なかったのかも、と付け足したグレイペコーは、悔しさを滲ませるように、唇を噛み締めていた。
「最近忙しかったからね。……もっと気をつけて見ておくべきだった」
グレイペコーは子供の頃から周りをよく見ていて、身体の弱いノルの面倒も率先して見ていたから、きっと今回起きたノルの体調悪化も、どれだけ酷い状態だったのか、よく分かっているのだろう。
「……ごめん、私が泣いてもどうにもならないのに」
涙で滲んだ目元を手で拭おうとすると、傷付いちゃうから駄目だよ、と優しく咎めたグレイペコーが、そっとハンカチを目元に押し当ててくれていた。
柔らかい布地の感触とふわりと鼻先を擽る茉莉花の香りが、ゆっくりと気持ちを落ち着かせてくれている。
「それだけ、ノルの事が心配なんでしょう」
言われて、リグレットは振り返って、閉ざされたカーテンを見た。
先程見たノルの眠った顔が、痛みで苦しんでいた彼の顔が、頭からずっと離れていかない。
「……うん」
リグレットは頷いて、震える両手でぎゅうと胸元を握り締めた。
以前、自分の命を一番に優先しろ、と彼に言われた事があったけれど、それは、彼がこんなふうに常に痛みを抱えて生きているからなのだろう、と改めて思い知らされる。
「そうやって思ってくれる人がいるのって、大事な事だと思うよ」
「そう、かな?」
グラウカも同じような事を言っていたような気がする、と思い、リグレットが顔を上げると、グレイペコーは少し、苦しげに眉を寄せて、両手を包むようにして握り締めている。
「自分の事じゃないから、他人の痛みを本当の意味で理解出来る事はないから……、自分の都合よくその人の状況を判断して、いい加減な事を言う人だっているからね。リグレットみたいに相手に寄り添って優しい気持ちを持ってくれる人がいるってわかるだけでも、安心すると思うよ」
だから、そんなに自分を責めないでね、とグレイペコーは言い、困ったように笑ってリグレットの頭を撫でた。
ノルが本当にそんなふうに思ってくれているかどうかは、彼に聞いてみなければわからない。
そんなふうに思ってくれていたなら嬉しく思うけれど、それでも、やっぱりこのままじゃいけない、とリグレットはぎゅうと目を瞑った。
目蓋の縁はまだ濡れていて、目を開くと、視界も水分で揺れている。
リグレットは大きく息を吸い込んで吐き出すと、顔を上げてグレイペコーを見た。
少し首を傾けて優しく笑うグレイペコーは、多分、自分の言いたい事をわかっているのだろう、とリグレットは思いながら、唇を開いた。
「あのね、私もペコー達みたいに、ノルの事を助けられるようになりたい」
「うん」
「だから、こういう時にどうしたらいいか、教えてくれる?」
「いいよ」
グレイペコーは分かっていたかのように笑みを深くして頷いてくれるので、リグレットも同じように頷いていた。
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