第49話 長い夜が来る前に

 薄青の紙に草花を模した銀の縁取りが描かれている、綺麗な封筒。

 丁寧に畳まれて入れられていた、封筒と揃いの手紙を手にすると、リグレットは震える息を吐き出した。


「悪いな。内容を確認したら、処分するよう言われている。辛いだろうが……」

「大丈夫! ずっと、こんなふうにお母さんから言葉が届いてくれますように、ってお願いしてたから……、だから、嬉しいの」


 ありがとう、マザー。そう言って抱き着くと、イヴルージュは困ったように眉を下げて、頰を頭に押し付けている。


 今朝配達を終えて戻ってくるなり、この部屋に呼び出されたリグレットは、突然イヴルージュからこの手紙を渡されたのだ。

 今まで何の音沙汰もなかったのに、こうして手紙を手にしていられるのは、先日の城での一件があったからなのかもしれない。

 

(本当の本当に……、お母さんからの、手紙)


 いつか届いてくれますように、と森の中に置いてきた言葉の数々を思い出して、リグレットは期待と不安の気持ちでいっぱいになってしまったけれど、この局長室の中は、彼女の趣味で揃えられたシノワズリ調の家具や小物があちこちに置かれていて、微かに彼女がつけている瑞々しいバラの香水の匂いがしているので、家にいいるようで少しほっとするから、良かった、とリグレットは思う。

 ゆっくり読んでいていいから、と言ったイヴルージュは、部屋の奥に設置された机に向かうと、積まれていた書類を手にして目を通していた。

 リグレットは少し迷ってから、窓際に置いてある赤いウインドバックチェアに腰掛けると、ゆっくりと手紙を開いた。

 少しほっそりとした、お手本みたいな、整った字。

 自分の書く丸みを帯びたころんとした字とは違う筆跡に、リグレットはそれだけで、これがお母さんの字なんだ、と緊張してしまう。

 落ち着かせようと深呼吸をしてから、再び文字を、そこに書かれている内容をゆっくりと追っていく。

 謝罪の言葉で始まっている手紙は、読み進めていく度に、淋しさと嬉しさが同時に湧き上がってくるようで、思わず手に力がこもってしまっていた。

 手紙には、あの日の事はずっと憶えているのだと、リグレットの事を一日たりとも忘れた事はないのだと、後悔や懺悔の言葉が綴られていて、それ以上に、怪我や病気をしていないか、辛い思いをしていないか、といった心配の言葉もたくさん並べられている。

 母親とは森で別れて以来話した事はないし、もうどんな人であったのかも、よく覚えてはいないのだけれど、そこには確かに自分に対する愛情を感じられるような気がして、リグレットは胸がいっぱいになってしまう。

 自分の言葉が届けられないのは悲しいけれど、イヴルージュが定期的に様子を伝えていると言っていたので、少しは安心しているだろうか……。

 すんと鼻を鳴らして手紙を読み終えると、リグレットはふと気がついて、首を傾げた。

 別れの言葉で終わった手紙とは別に、もう一つ、便箋が残っている。

 不思議に思いながらも開いたそこに書かれていた文字を見たリグレットは、ぱちりと大きく眼を瞬かせた。


 お願い、あなたの側にいる子を助けてあげて。

 それが出来るのは、あなただけだから。


「……私の側にいる、子?」


 ぽつりと呟いたリグレットが顔を上げ、窓の向こうへと目を向けると、中庭で二匹の狼達が戯れあっているのが見えた。



 ***



「ノル、こんな所で寝てたら風邪ひくよ」



 軽く肩を揺らされたノルがうっすらと眼を開けると、目の前にふわふわの白い毛並みが飛び込んできた。

 寝起きでぼんやりとしたまま、べろべろと顔を舐めようとしているミゾレの頭を抱え込むようにして撫でながら宥めていれば、呆れているようで心配を隠しきれていない表情を浮かべているグレイペコーが顔を覗き込んでいる。

 中庭に出て少し休んでいた筈が、いつの間にか眠ってしまっていたのだろう。

 考えて、ノルはポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認する。

 いつもと薬の処方が大きく変わっているせいで、上手く眠気を対処しきれていないらしい。

 グレイペコーがこうして自分を気にかけているのも、数日前に酷い倒れ方をしたからだろう、とノルは思い、ミゾレの頭にぽんと触れてから、ゆっくりと立ち上がった。

 熱っぽさはあるものの、あの意識を保っている事さえ耐えられない程の痛みが引いているだけで、調子がいいとさえ思えてくる。


「倒れてからまだそんなに日が経っていないんだから、無理しちゃ駄目だよ」

「何度も言わなくてもわかっている」


 む、とノルが不満を露わにすれば、グレイペコーは苦笑いを浮かべている。

 まるで子供の頃みたいだ、と思っているに違いない。

 足元でふんふんと鼻を鳴らしていたミゾレは、グレイペコーと話をしている間に、離れた場所で日向ぼっこをしているキナコの元へ走って行ってしまっていたらしい。

 戯れつかれていた為に白い毛がついてしまった制服の裾を叩くと、ノルは僅かに躊躇うように口を開いた。


「グレイペコー」


 名前を呼ぶと、グレイペコーは眼を細めて見つめていた狼達から視線をノルへと移した。

 首を傾げる動作に合わせて、柔らかな紫色の長い三つ編みが揺れている。


「悪かったな」


 申し訳ない気持ちでそう言うと、足りない言葉でもその意図を汲み取ったらしいグレイペコーは、ぱちぱちと瞬きを繰り返してから、途端に可笑しそうに笑っている。


「ふふ、ノルのそういう顔、久しぶりに見た」

「お前な……」


 真剣に謝っているのに、と顔を顰めれば、ごめんごめん、とグレイペコーが口元に指を添えながら謝っている。

 子供の頃からの付き合いだからこそ、何を言わなくとも大抵は互いに理解出来てしまうけれど、言葉にしておかなければならない事もあるのだと、ノルは思う。

 それは、いつかリグレットが、ノルの事を少しずつでもいいから教えて欲しいと、教えてくれなければノルが何を考えているのかはわからないのだと、そう言っていたからかもしれない、と。


「こっちこそごめんね。リグレットにはああいう所、あまり知られたくなかったでしょう?」


 そう言われて、ノルは小さく息を吐き出して、肩を竦めた。


「……、あいつ、泣くだろう」


 グレイペコーは幼い頃からずっとノルの面倒を見ていたので、倒れた時や痛みが酷くなって暴れ出した時の対処も理解しているが、リグレットは違う。

 突然身近にいた人間が倒れる事も、痛みに耐えかねて変貌してしまう事も、怖がってしまうに違いない。

 ノルがそう思うのを読み取ったかのように、グレイペコーは困ったように笑みを浮かべている。


「勿論。もう目が溶けちゃうんじゃないかなっていうくらい、大泣きしてたよ」


 幼い頃、体調を崩して寝込んだ時にも、近付いちゃ駄目だよと言われたリグレットは、それでも扉を薄く開けて、何度も何度もノルの様子を見にきていた事があった。

 それも、あの大きな青眼に目一杯涙を溜めて。まるで自分自身が辛くて苦しいのだと、言わんばかりの顔をして。

 やっぱりな、と呆れたようにまた一つ溜息を吐き出すと、それを見ていたグレイペコーも頷いて笑っている。


「泣き止んだと思ったらね、ノルが倒れた時にはどうしたらいいのって聞いてきて、一生懸命メモ取ってたよ」


 グレイペコーの言葉に、むず痒さを感じたノルはそっと顔を背けて、また足元に戯れついてきていたミゾレと、その後ろから尻尾を振ってついてきたキナコの頭を撫でた。

 一区にいる狼達は比較的人懐っこいが、それでも、彼らは不思議と自分によく懐いてくれている、とノルは思う。

 犬や猫などは飼い主が気落ちしていたり病気を患うと、そっと寄り添ってくれる事があるらしいと聞いたが、彼らも同じなのだろうか。

 それはどことなくリグレットにも似ているような気がして、ふ、とノルの唇から吐息が零れていた。


「リグレットはどうした?」


 配達に行ったきり、姿を見ていないようだと思い出して問いかけると、グレイペコーは局長室のある方向へと眼を向けている。


「お母さんから手紙が届いたらしくてね。特別な措置で届けて貰ったものだからって、局長室で読んでるみたい」

「そうか」


 リグレットは少し前に、城に連れて行かれて自身の出生にまつわる話を聞いたらしい。

 伝言局に帰って来た時、目元がうっすら赤くなっていたので、泣いていたのだろう事は、ノルもグレイペコーも気付いてはいた。

 彼女がどれだけ母親を想っているのかも、悲しい過去を知ってどう感じたのかも、分かっているからこそ、二人は何も言えなかったけれど。


「名前の事があったから心配だったけど……、ちゃんとあの子の事考えてくれる人みたいで良かったよ」


 眩しい陽光に眼を眇めるようにして、柔らかに笑うグレイペコーは、そう言ってノルの顔を覗き込んだ。

 悪戯に笑っているので、きっと内心を見透かしているのだろう。


「ノルも安心したでしょ?」

「……、そうだな」


 観念したようにそう呟くと、「ノルのそういう所、本当にかわいいよね」とにこにこして言われるので、ノルは大袈裟に息を吐き出して、腕を組んだ。

 撫でるのを中断された狼達が足元で非難めいた目を向けて、ぴすぴすと鼻を鳴らしている。

 見かねたグレイペコーが楽しげにわしゃわしゃと撫で回していたが、ふと顔を上げて、局長室の方へと目を向けていた。

 赤い瞳が、縁取る長い睫毛が、風が吹いた水面のように揺れている。


「リグレットのお母さんの事件、早く解決するといいよね」


 父親を失い、母と別れ、リグレットが森に置いて行かれなければならなかったという、事件。


「……、そうだな」


 ノルは右耳のイヤーカフに触れると、青い桜の森へと視線を向けた。

 空に溶け込みそうな程の鮮やかな青色へと染まる花弁は、もう、散り始めている。

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